貴石製容器
他の骨董品と同様、貴石製容器も最初からメディチ家の所蔵品となっていました。コジモ・デ・メディチの息子ピエロ・イル・ゴットーゾは1465年にヴェネツィアから、丸ごと1個のカーネリアンから掘り出された貴重な花瓶を入手しました。ロレンツォ・デ・メディチが亡くなった1492年までに、この赤い花瓶の価格は600フローリン金貨にも及んでいました。
1494年にメディチ家がフィレンツェから追放された時、この貴重な花瓶は暫く失われ、その後、ローマ教皇クレメンス7世によって買い戻されました。花瓶に刻まれた金色のロレンツォの名前は、後にミケランジェロが聖ロレンツ教会のために設計した聖物講壇にも彫られています。
絵画
メディチ家は芸術家を支援しながらも、芸術家たちの才能を利用して、一族の名声を確立していました。
コジモ・デ・メディチはドミニコ会を支持してサン・マルコ修道院に進駐させた後、メディチ家に関連する要素が入ったリテイブル(祭壇画)の制作を依頼し、この仕事をフラ・アンジェリコ修道士に与えました。フラ・アンジェリコ修道士は教会の祭壇のプレデッラ(祭壇飾りの最下部)部分にメディチ家が聖人を守護する物語を描いたのです:「聖コスマスと聖ダミアヌスの殉教」。
金細工師、画家、彫刻家であるアントニオ・デル・ポッライオーロは1460年にピエロ1世のために、「ヘラクレスの功業」を称えるシリーズ絵画を創作しました。このキリスト教化されたギリシアの英雄が強敵を打ち倒した功績は、独裁に対する共和制の勝利を象徴しているのです。しかし、このシリーズの絵画はほとんど失われてしまい、現在、2枚の小さな板絵しか残されていません。
彫刻
ミケランジェロ・ブオナローティの名作の一つ――「ダヴィデ=アポロ」の彫像は足元に球形の物体を踏んでいるので、本来は巨人ゴリアテの頭を踏んでいるダビデ像だったのではないかと推測されています。1572年頃、ローマが略奪され、メディチ家出身の教皇クレメンス7世が破門されたことに後押しされて、フィレンツェ市民は再びメディチ家を追放して、共和制度の復興を狙っていました。ミケランジェロも積極的に協力し、要塞建築総督として任命されました。
しかし、2年後、教皇はカール5世の力を借りて、フィレンツェの支配権を取り戻し、使者ヴァロリにフィレンツェの管理を任せました。ミケランジェロは教皇との和解を求めようと、ダビデ像をアポロの像に変更し(ダビデ像は共和制度の象徴だったため)、ヴァロリに贈りました。その後、この彫像はコジモ1世によってヴェッキオ宮殿に収蔵され、その後、息子のフランシス1世の部屋に置かれることになりました。
(つづく)
(翻訳編集・季千里)
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