≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(50)「トンヤンシーの事実を耳にして」

その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。養母は養父に、自分たちも蘭家後村に引っ越したいと言っていました。

 養父が山に入る前には、養母は趙家のことなどこれっぽっちも話さなかったのに、養父が数日出かけている間に、どうしてこんなにも大きく変わったのか。養父は不思議に思い、養母に尋ねたのですが、そのときは養母は仔細を告げずにさっさと寝てしまいました。

 翌日、養母は私を向かいの謝さんの家に「粉引き」に行かせました。謝さんの家には、ロバと碾き臼があり、近所の人はそこへ粉引きの手伝いに行くのです。そして、手伝いが終わると、加工賃をもらったり糟や少しばかりの穀物をもらいました。

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その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
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