≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(51)「初めて作った布靴」

私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。李秀珍の家は道端にあって、私は毎日水を汲みに行くのに、その家の傍を通りました。

 李秀珍のお母さんは、木板を一枚一枚と外へ出して干していました。木板の上には、色々な小さな布きれがきれいに並べて張ってあり、その上に糊を塗りつけてから干します。それが乾くと一枚の布のようになり、それらを張り合わせて靴を作るのでした。

 この張り合わせの布は、日本では見たことがなく、初めは何に使うのか分からなかったので、いつも李秀珍のお母さんに聞こうと思いつつ、なかなか聞けませんでした。

 李秀珍には叔父さんがいて、日本の勤労奉仕隊の娘さんを嫁にもらっていました。上原豊子さんと同級生だそうですが、名前は知りませんでした。

 ある日、私がまたその家の前を通りかかったとき、李秀珍とその日本人のおばさんが外にいました。私が水桶を提げてやってくると、おばさんが日本語で「休んでいきなさい!」と声をかけてくれました。私は恥ずかしそうに近くに行くと、挨拶をしました。

 すると、李秀珍のほうから私に話しかけてきました。彼女は私に、「どうして、子どものあなただけが毎日水汲みをしているの。お母さんはどうしてやらないの」と聞きました。わたしはこれにどう答えていいものか分からず、ただもじもじとそこに立ち尽くしていました。

 私は、そこに干してあった厚ぼったい「張り合わせの布」が目に入ったので、何に使うのか聞いてみました。すると、李秀珍が、「これで、お母さんが私たちに靴を作ってくれるのよ」と教えてくれました。

 それで、彼女がはいている靴に目をやると、それは柄が付いており、とても見栄えのいいものでした。それ以来、私は自分でも靴の作り方を習いたいと思いました。そこで、おばさんに尋ねると、靴を作るには、まず靴底を刺し子に縫わなければならないと教えてくれ、私に、刺し子縫いに使うために自分で作った麻紐を何本かくれました。

 私は、養母が雑巾にするように言ったぼろ布を「貼り合わせ布」に加工して、まずは靴底の刺し子縫いを教えてもらい、それから、靴の上布部分の作り方を覚えました。私は一方で教えてもらいながら、一方で東の棟の王おばさんが靴を造る手順を見よう見まねで覚えました。

 靴底と上布部分を仕上げると、最後は仕上げです。靴底と上布部分を縫い合わせるのですが、これが至難の業でした。東の棟の王おばさんに片方を仕上げてもらい、もう片方は自分で仕上げました。あまりいい出来栄えではありませんでしたが、それは自分で初めて作った靴でした。履いてみると足にぴったりと合い、とても嬉しい気がしました。自分で靴が作れるようになったのです。

 登校一日目に、私はこのあまり見栄えはよくないが自分で作った靴を履いて行きました。

(つづく)