≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(50)「トンヤンシーの事実を耳にして」

その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。養母は養父に、自分たちも蘭家後村に引っ越したいと言っていました。

 養父が山に入る前には、養母は趙家のことなどこれっぽっちも話さなかったのに、養父が数日出かけている間に、どうしてこんなにも大きく変わったのか。養父は不思議に思い、養母に尋ねたのですが、そのときは養母は仔細を告げずにさっさと寝てしまいました。

 翌日、養母は私を向かいの謝さんの家に「粉引き」に行かせました。謝さんの家には、ロバと碾き臼があり、近所の人はそこへ粉引きの手伝いに行くのです。そして、手伝いが終わると、加工賃をもらったり糟や少しばかりの穀物をもらいました。

 今日はどういうわけか、私がトウモロコシの粉引きに行ってみると、謝おばあさんとその家の口の利けない叔父さんの奥さんは、ずいぶん私に気を使いよくしてくれました。その上、ロバを碾き臼につないだり、ふるい用の木のお盆や箕などを用意してくれました。

 その日は、謝さんの家にお客さんが何人か来ており、私が外棟の東の間で「粉引き」をしていると、わざわざそこへ来て、私の仕事を見るのです。そして、何やらひそひそ声で、幼いのによく仕事ができるなどと、私を褒めているようでした。

 私は耳に入りましたが、全く気にしませんでした。その人たちは私とは何の関係もないのだと思い、いつものように、一人で粉を引き、ふるいにかけ、黙々と働きました。

 ところが、私が家に帰ってみると、養母が養父と喧嘩を始めていました。オンドルの上でもしきりに罵っていました。養父は私が戻ってきたのを見て、何も言わず、外へ薪割りに出て行きました。

 養母はそれでもまだ罵り続けていました。私はその声から、どうもまた私のことで二人が喧嘩をしたのだとわかりました。養母は罵りながらぶつぶつとぼやいていました。「このお馬鹿さんは私が連れてきたんだから、私の好きなようにさせてもらうからね」。ひとしきりぼやくと、養母は乳飲み子を背負って出て行きました。

 このように、奇妙なことが前後していろいろと起こったのに、私には依然としてそれがどういうことか全く見当がつきませんでした。

 その晩になって、孫おじさんが私の家に来て、何やら養父と話を始めました。外の間にいた私は、二人の話が聞こえ、事の経緯の全てがやっとわかりました。

 養母は私を蘭家後村の趙という家に売りに出そうとしていたのでした。私が小学校を卒業するのを待って、趙家の次男の嫁にするというのです。しかも、向かいの謝おばあさんが「仲人」で、養母には大金が入るというものでした。

 私はそれを聞くと、とても悲しくなりました。以前、養母は、趙家には女の子がいないので、私をほしがっていると言っていただけで、息子の嫁になるなど、これっぽっちも聞いていませんでした。私は考えれば考えるほど分からなくなりました。悲しいけれども、「トンヤンシー」になるのがどれほど恐ろしいことかよく分からなかったので、いっそのこと考えないことにしました。

 私の頭の中にあるのは、間もなく学校に行って勉強できるということだけでした。「先の事」は考えないようにしていた私は、往々にして事情が発生してから怖くなるのでした。

(つづく)