≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(54)

【大紀元日本12月13日】区役所の人たちが私たち子どもに、「明日、東京の町に行って会合に出なければいけない。皆朝早く駅に集合すること。遅刻しないように」と言いました。

 翌日、私は朝早く駅に行きました。大きい雪がはらはらと落ちていたのを覚えています。気温は低く、立っていると足がひどく凍えました。早く来たのは何かを期待しているかのように感じていましたが、それが何であるかはっきりとはしませんでした。

 間もなく皆が来ました。私たち子どものほかに多くの大人の女性がいました。彼女たちは皆日本語が話せました。

 汽車の中は大変に込み合い、私と孫淑琴はずっと一緒になって、ドアの所にもたれていました。車内の大人たちの話し声は大変大きく、私たち子供は誰も話をしませんでした。

 東京の町に着くと、私たちは一軒の旅館のオンドルのある大部屋に連れて行かれました。部屋の中には、既に多くの年配の女性や子供たちが座っていました。部屋の中の人々は、皆が日本語を話していました。

 私と孫淑琴は、着いて出席薄に署名するとすぐに街に出ました。雪はますます激しくなり、辺り一面は真っ白な雪景色になりました。天気は寒くなり、街行く人もまばらになりました。

 とても不思議なことですが、あのとき私はどうして部屋に留まっていなかったのでしょうか。あんなに日本に帰りたいと思い、あんなにこの日が来るのを待っていたのに、あのときは、あれほど多くの日本人が一緒に集まっているのを大して気にも留めなかったし、どうして皆がそこに集まってきたのか、深く考えようともしませんでした。

 私はそれらをすっかり忘れてしまったかのように、そして、まるで何か大切なことが心に掛かっていたかのように、知らず知らずのうちに無意識に外に飛び出していました。

 街を歩いていたとき、何かを探しだそうとしていた心が突如静まり、かつてこの通りを通ったことがあるのを思い出しました。当時、開拓団の人たちとこの街を通り過ぎたとき、団長は皆を整列させ、靴ひもをしっかりと結んで、歩くときは隊列から離れないようにと言っていました。

 私の脳j里には母が思い浮かびました。母はお腹が大きく、小さな弟を背負い、大変そうに歩いていました。私と上の弟は母の傍に寄り添い、皆必死に逃避行していました……。

 母と弟が私のほうに向かってきて、私に手を振って、着いてくるように言っているようでした……。

 私の目には涙があふれました。その瞬間、母、父、弟たちと中国で体験した一切の出来事が脳裏に浮かびました。母が語ってくれた話、父の言いつけ、母が繰り返し言いつけた話、たとえ一人になっても生き残って何とかして日本に帰るようにという言いつけが、次々に眼前に浮かんできました。

 しかし、そのような境遇にあり、雪が舞い落ちる通りを歩く中、まるで母と弟が自分の傍を通り過ぎたかのように感じ、ある種の形容しがたい気持ちが浮かんできました。

 思い起こせば、中国に来る途中で船上で暴風雨に見舞われて以来、母はずっと繰り返し繰り返し諦めないように言い続けていました。まるで私が中国にいるのは全て日本に帰るためだと言っているかのようでした。

 私のそばにいた孫淑琴が私を現実に引き戻しました。わたしたち二人は、街で麻花(大きなかりんとうに似た揚げ菓子)を買うと、歩きながら食べました。麻花の上にも雪が落ちてきました。

 (続く)