≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(52)

【大紀元日本11月10日】

 入学後の平静な日々

 入学した初日、私は李秀珍や家の西に住んでいた王秀琴と一緒に学校に行きました。彼女ら二人は三年生の学級でした。李秀珍と王秀琴は、私のために先生を捜し出してくれました。彼は、黄啓倫先生といいました。彼は指導主事で、私の第一印象は、背が高く目が大きくて特別元気な人でした。

 黄先生は、私に名前を聞いたので、劉淑琴だと答えました。続いて、黄先生は、自分の名前を書けるかと聞いたので、私はできると応えました。そこで黄先生は私にチョークを手渡し、黒板に名前を書くように言いました。私はとてもすらすらと書いて見せました。さらに、黄先生は私に「労働者」「農民」「両手」「耕作」などの簡単な単語を書くよう指示しました。私はちょうど夜学で学んだばかりでしたから、全部正しく書けました。そのうえ筆順も全部正しかったのです。

 黄先生はとても満足で、私を直接三年生に入れました。ちょうどうまい具合に、李秀珍、王秀琴と一緒のクラスになり、私はうれしくなりました。わたしたち三人は、とてもがあったのです。

 私のクラス担任は、女教師の王智新先生でした。彼女は若くて丸顔でした。肌も白くてきれいで、頭髪は少し茶色がかっていました。語り口は、おっとりとした口調で、非常に優しいものでした。私はとてもうれしくなり、そのうえこの女の先生がとても好きになりました。

 王先生は私が日本人の子であるのを知っていたようです。入学してからまもなく、ある日試験があったのですが、私は100点をとりました。その日、王先生に「あなたはどこかで勉強したことがあるの?」と訊かれたので、私は包み隠さずに全部話しました。私は日本の東京にいたとき、姉と習字を習ったことがあるとか、東京で学校に行っていたこと、中国に来てからは開拓団の学校で勉強したことなどです。

 王先生は、私が姉や祖母と遠く離れ、家に帰ることができないでいるのに同情したのか、優しく小声で話し掛けてくれました。「あなたの日本名は何ていうの?」私が紙に「飯塚正子」と書くと、驚いたことに王先生は日本語でその名前を読みました。王先生はさらに小声で、「くれぐれもこの日本名を忘れては駄目よ」と言ってくれました。

 そのときの私は、すでに中国語を流暢に話すことができるようになっていましたが、日本語のほうはどんどん忘れ去ってしまい、成長してからは、総てすっかり忘れてしまいました。ただ自分の家の人たちの名前だけは忘れませんでした。それは王先生が、「くれぐれも日本名を忘れては駄目よ」と言ってくれたからで、この言葉が常に頭に浮かび、普段から家族の名前をくりかえしていたのです。

 だから三十年経って、日本人の親類を探す段になった時、私は父母の名前、祖母、姉、弟の名前の記憶を頼りに、すぐに長年散り散りになっていた姉を探すことができたのでした。

 (続く)