≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(44)「掃討隊に吊るし上げられた養母」
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
私は不安のまま窓にもたれかかり、外を見ていました。表門は大きく開かれ、中庭には既にたくさんの雪が降り、地面は真っ白になっていました。そのとき、表門の外から数十人の人が、養母を縄で縛り上げて中庭に入ってきました。養母はそこに跪かされました。周りを多くの人が取り囲んでいます。その中には隣近所の人たちも混じっていました。「見物」に来たのです。
私からは養母が見えず、打たれたときの叫び声だけが聞こえました。私は怖くなり、自分の部屋に身を隠そうと思いました。ところがそのとき、何人もの人が家のドアを開けて中に入って来ました。彼らは、養母の部屋に入り、箱をひっくり返しながら何か探していました。次に、私の部屋にも入ったのですが、オンドルの上に干してあるトウモロコシの粒と巻き上げた布団を一瞥すると、何もせずに出ていきました。
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あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。
【大紀元日本11月10日】 入学後の平静な日々 入学した初日、私は李秀珍や家の西に住んでいた王秀琴と一緒に学校に行きました。彼女ら二人は三年生の学級でした。李秀珍と王秀琴は、私のために先生を捜し出し