≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(45)「乞食を強要されて」

養母に乞食を強要される

 ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。養母は小さいときからわがままに育ってきたので、縫い物もできないし、生活をきりつめてやりくりすることもできませんでした。米があるときは、毎日のように私に米のご飯を作らせ、なくなると、お粥をすすることさえできませんでした。養母は人の忠告など聞き入れられず、ましてや私の言うことなど聞く耳をもちませんでした。

 その翌年の春、端境期に、私の家は本当に苦しくなりました。私はやむなく、タンポポや小さい根菜を掘り起こし、それを持ち帰ってトウモロコシの粉と和えて食べました。

 或る日、養母に悪いアイディアが浮かびました。私に乞食をさせようとしたのです。養母は私に二つの袋を差し出して、「明日、この袋を持って物をもらいに行っておいで!くれるものは何だってもらっておいで」というのです。

 私はそれを聞いて、内心とても落ち着かなくなりました。飢えても殴られてもいいから、行きたくなかったのです。これは、私にとって最も辛いことで、たとえ人様が進んで恵んでくれても、もらうのはバツが悪いと思うのに、ましてや「乞食」に行けというのです。

 小さい時、祖母が私に、「やたらと人の物をほしがっては駄目よ。それは恥ずかしいことですよ」と言ったことがあります。開拓団本部にいて逃避行をしているときにも、生母はよく私と弟に、「いついかなるときでも、絶対に人の物をとったり、人の物をほしがったりしてはだめですよ。それは恥ずかしいことなの」と言っていました。祖母と生母の教えは、永遠に忘れることができません。

 しかし今、私はこのような養母に出くわしたのです。他の人に食べ物を恵んでもらいに行けというのです。こんなことは思いもよりませんでした。

 私は一人部屋にもどると、数年前開拓団と一緒に移動しながら森の中に身を隠していた日々を思い起こしていました。あのときも同じように食べるものがなく、原始林の中、露天で生活していました。皆ひもじい思いをして、雨にも打たれていましたが、私に「物乞い」をしに行けと言う人は誰もいませんでした。

 当時生母は、自分が飢えてでも子供のことを先に考える人でした。しかし今、私が毎日一緒に暮らしている養母は、生母とは正反対でした。私は本当に悩みました。このような状況にどう対処したらいいか分かりませんでした。養母の命令に従わなければ、許してもらえず、間違いなく殴られるのですが、命令に従えば、自らの信念に背き、生母の教えに背くことになるのでした。

 そんなことを考えているうちに、私は眠りにつき、生母や弟たちの夢を見ていました。すると、急に養母が私を呼んだので、私は夢から目が覚めました。外を見ると、まだ真っ暗で夜が明けていないのに、どうして養母は私をこんなに早く起こしたのでしょうか?私が腑に落ちずにいると、養母がやってきて、外がまだ暗く、人が見ていないうちに出かけると言うのです。養母は、煥国を背負い、私に手提げのバッグや袋を持たせると先に出て行きました。私はやむを得ず養母の後についていきました。

(つづく)