≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(32)「慈愛に満ちた養父」
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
この日、私は西棟の南の間の王おばさんの所に泊まりました。数日して養父が私に会いたいというので、私は恐る恐る部屋の中に入り、まず一礼しました。養父はもう座ることができるようになっており、私に名前と歳を聞きました。私は中国語で、「劉淑琴」という名で、年が明けたら9歳だと答えました。養父は、私が聡明で礼儀正しいとほめてくれて、中国語を覚えるのが早いし上手だと言いました。養父の温厚で親しみやすい語り口を耳にして、私はここ数日抱いていた不安な気持ちがなくなりほっとしました。
養父は警察官だと聞いていたのですが、これほど穏やかでやさしい人柄だとは思いもよりませんでした。私の第一印象は、養父は養母に比べてはるかに年上でしたが、慈しみがあり、少しも怖そうなところはありませんでした。そのうえ、養父も私を気に入ってくれたようで、私によその家に泊まる必要はないので、帰ってくるように言いました。
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私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。
私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。