≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(38)「日本人妻との出会い」

私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。

 今度の我が家は、北卡子門からさほど遠くない所に移りました。ここの大家は王喜蘭といいます。先ほど述べた、数日逗留するだけだった家の大家であった大地主の王敬峰の身内でした。

 私たちは、引っ越してから、この周囲の人の姓がみな王であることに気がつきました。聞くところによると、彼らはみな血のある「大家族」で、皆が親戚でした。

 王喜蘭には三人の息子と一人の娘がいました。長男は王慶図、次男は王慶海、三男は王慶禄といい、一番下の女の子は王桂芳といって、私より少し歳下でした。

 おもしろいことに、長男の王慶図の嫁は日本人で、上原豊子さんと言いました。彼女は、日本の香川県から勤労奉仕で中国に来たのでした。彼女たちは、当時はまだみんな18歳の女学生でしたが、中国に来てからまもなくして「光復」(※1)となり、日本に帰れなくなりました。そして、生きるために中国人と結婚したのでした。

 王喜蘭の家の東側にも、王姓の家がもう一世帯ありました。その家には二人の息子がおり、長男の王喜太もまた日本女性を妻としていました。彼女の名前は唐渡敏江さんといい、やはり香川県の人で、上原豊子さんの同級生でした。

 日本が終戦を迎えた当時、婦人であれ、勤労奉仕の名の下に中国に来た若い娘さんであれ、日本女性は、生きるために中国人と結婚する道を選ばなければなりませんでした。そして、このような日本女性を安価で手に入れて嫁にした中国人は、その多くが貧乏人か、もしくはお金がなくて嫁の来てがなかった年配の男たちでした。それゆえ、その当時の日本女性たちは、自分より10歳も20歳も年上の中国人男性と結婚しなければなりませんでした。

 私が後に沙蘭鎮で知り合った日本人妻の夫はかなり年上でしたが、彼女たちは自分の夫には献身的に尽くし、よく面倒を見ていました。夫が老齢で、病気がちであっても、嫌がることはありませんでした。

 彼女たちが、夫が引き取ってくれたことを恩に思っていたにせよ、はたまた別の理由があったにせよ、私は彼女たちの献身的な様子を見て、結婚に対して責任感のある彼女たちの姿勢に感動しました。

 私たちのところの上原豊子さんと唐渡敏江さんは、他の日本人妻と比べればまだ幸せと言えました。二人の夫はともに20歳あまりで、年がつりあっていました。しかも、二人の夫は顔立ちが端正で、彼女たちはとても運がよかったと思います。特に、当時のような境遇の中では。

 彼女たちは既に子供を生んで母親になっており、生活も安定していました。生きるか死ぬかのようなあの状況下で、あのようにお似合いで生活も安定している夫に巡り逢えたことは、彼女たちにはとても幸せなことでした。

 私は、家のすぐ近くに、子供を生んで母親になっている大人の日本人が二人もいるのをうれしく思いました。私は、彼女たちの傍にいれば、何かあったら、彼女たちに相談できるし、助けてくれるかもしれないと思いました。そうなれば、自分はもう孤独ではなくなると思ったのです。

私たちが引っ越してきたとき

 

私たちが引っ越してきたとき、共産党はまだ中国で正式に政権を樹立しておらず、土地改革(※2)もまだ始まっていませんでした。八路軍もまだ大量には村に入っていませんでしたが、一部の人がすでに共産党の各種宣伝活動をしていました。沙蘭鎮のそれぞれの村では、民兵の武装が進み、王喜蘭の長男の王慶図は小隊長でした。

 こうしたことから、人々は政権交代の息吹を感じていました。

 養父は、長らく帰ってきませんでしたし、手紙を人にことづけることもありませんでした。(以前はよく人に品物を託し、私にもわざわざ柄物の服を買ってくれたこともありました。)王喜蘭の家の人の話では、「劉官吏は、大溝里に身を隠した」とのことでした。

 私がこの家に来てからというもの、人々は養父の名前を呼びませんでした。ひょっとしたら、名前をちゃんと知らなかったのかもしれません。彼らは養父のことを「劉官吏」と呼び、そう呼べば誰でもわかりました。

 人々は私を見ると、事情を知らない周囲の人に、「劉官吏のところの日本人の子で、『小さなお馬鹿さん』」と言っていました。私のこのありがたくない呼び名は、1945年の冬から中学に入学して沙蘭鎮を出る1954年の夏まで、ずっと続きました。

(※1)光復:日本の植民地であった地域で、日本の支配から解放されること。
(※2)土地改革:地主の土地と生産手段を没収し、土地を持たない農民に分け与えた政策。

(つづく)