アース・ライトさんの【聖地巡礼】野崎観音参り
【大紀元日本5月13日】
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んでみようか 土手の人
1935年(昭和10)、東海林太郎が「野崎小唄」をヒットさせて、野崎参りの昭和人気が再燃しました。野崎参りは、大阪の生駒山にある曹洞宗の禅寺・野崎観音に参詣することです。
天平勝宝年間(749~757)に日本にやってきたインドのお坊さんが「野崎の地は、お釈迦様が初めて説法を行った鹿野苑(ろくやおん)のようだ」と、有難いお誉めの言葉で行基さんに感想のほどを述べました。さすが行基菩薩さん、聞いたことをカタチにします。さっそくふさわしい白樺の木を選び、十一面観音を丹精込めて彫り上げて安置します。えらい人の言葉を、人々のために成し遂げて世にあらわすことが菩薩さんの務めです。
野崎参りは、特に江戸時代の頃から行楽気分でお参りする大坂の旦那衆や、行きかう庶民であふれるかえるほど人気が出ました。これには時代のいきさつがあります。1710年に起きた油問屋の娘・お染と、丁稚・久松の心中事件から着想を得た近松門左衛門の「女殺油地獄」が、大坂竹本座で初演(1721年)されると大当たりとなり、舞台に登場する野崎観音は恋の道行きの大団円の見せ場と重ねあわされて、江戸庶民が共感する聖地巡礼の場所としてハイライトを浴びたのです。
お染・久松塚(大紀元)
近くを流れる寝屋川を屋形船に揺られて遡り、手前の住道で下船して参詣するというルートに人気がありました。それにもう一つ、寝屋川の堤防をピクニック気分でテクテク繰り出して、菜の花畑を見ながら向かうという人々(土手の人)の群れがありました。屋形船に揺られて川を遡る乗客と、土手を行く人との間で言葉のバトルがいつものように交わされます。お互いに軽口の挨拶をやりあっているうちに、次第に口喧嘩のようなストーリーが展開します。軽妙洒脱な喧嘩のバトルゲームに腹を立てた方が負けとなり、頭を下げさせた方が勝ちとなり、その年のラッキーチャンスに恵まれるというジンクスが当時生きていました。
例えばこんなやりとりです・・・
船客「おーい!そこの、へなしゃらと歩いてらっしゃる人。タンス長持ちは枕にならん。牛は大きくてもネズミはよう捕らん。これがあんたと同じ用たたずと、いうこっちゃ。山椒はピリリと辛いもんや。そんな歩きようのお参りでは、観音様の罰が当たりよるで。どうした文句があるか!」
土手行く人「何やら、えらそうに言いよって、どうでもええけど、小粒が落ちたで!」
船客「え! どこや?」(・・・と頭を下げて、小粒を探す)
頭を下げた方が落語のサゲ落ちと重なって負けとなり、口喧嘩バトルはあっけらかんと終了します。山椒は小粒でピリリと辛いの「小粒」を口喧嘩の相手が言い忘れたのを、さらりと捉えて一分銀(小粒)が落ちたとやり返しました。見事に意表を突いて思わず頭を下げさせ、負けましたのポーズをとらせたので土手行く人の勝ちです。
しかし本当は、負けた方が勝ちというのが、野崎観音参りの隠された人情方程式なのです。悪口を言われても、決して腹を立てた言葉を返さずに相手に負ける事が出来れば、野崎参りの本願がかなえられるからです。落語「野崎詣」はこのやり取りを描いて、野崎参りにユーモラスなバトルのエールを送りました。
*アース・ライト(太陽の光を浴びて、地球の聖地が発する反射光)