最後の「信」――AIが偽造できないもの【日本の中の「仁義礼智信」22】

2025年、世界のディープフェイクコンテンツは、
50万件から800万件へと爆発的に増加した。
わずか1年で、16倍に膨れ上がったのである。
それと同時に、研究者たちがある実験を行った。
どの動画が本物で、
どれがAIによって生成されたものかを、
人々に判別させたのだ。

結果は、
正しく見分けることができたのは、
4分の1にも満たなかった。
つまり、
あなたが今見ている映像は、
4分の3の確率で、
それが本物なのか、
それとも機械が作り出したものなのか、
判別できないということだ。

この時代において、
ある一つの言葉が、
その意味を失いつつある。
「信」である。

かつて、「信」とは――
嘘をつかないこと、
約束を守ること、
言動を一致させることであった。

しかし今日、
「信」は新たな危機に直面している。
目の前にあるその言葉が、
人間が発したものなのか、
機械が生成したものなのか、
確かめようがないのだ。

この写真は、本物か、生成されたものか。
このニュースは、事実か、虚偽の情報か。
この記事は、人が書いたのか、AIが書いたのか。
この声は、本物か、合成されたものか。

47か国、4万8千人が参加した調査が示している。
66%の人が、
日々AIを使っているにもかかわらず、
その中で、
AIを信じようとしている人は、
半数にも満たない。
これは、人類の歴史における、
新たなジレンマである。
我々は自ら信用していないものを使って、
信じることのできないコンテンツを作り出し、
そして、互いへの信頼を失っているのだ。

このような危機を、
二千五百年前、
孔子はすでに予見していた。
AIそのものではない。
しかし、
人に真偽を見失わせる、ある力についてである。

孔子はこう言った。
「巧言令色、鮮し仁。」
(『論語・学而』より)
口先がうまく、
表情を取り繕うような者には、
真の仁など滅多にない。

孔子が最も忌み嫌ったのは、
悪人ではなく、
善人に見える悪人であった。
外面ばかりが華やかで、
内側は空っぽな存在である。

今日、AIが作り出すコンテンツは、
まさにこの時代の「巧言令色」にほかならない。
本物のように見え、
もっともらしく思えるが、
その内側には、
人間が存在しないのだ。

しかし、まさにこの時代にあっても、
AIが決して偽造できないものが存在する。
言葉ではない。
画像でもない。
声でもない。
映像でもない。
一対の手が、
作り出したものだ。

京都の漆器職人は、
三十年もの歳月をかけて、
手で漆の温度を感じ取り、
今日の湿度が漆塗りに適しているかを判断し、
この層がどれほど乾いたか、
次の層をいつ塗り重ねられるかを知る術を身につけた。
それらの判断は、
彼の手の中に宿り、
彼の肌の中に宿り、
三十年間のあらゆる朝の中に宿っている。

AIは漆器の写真を生成できる。
漆器を紹介する文章を生成できる。
漆器の技法を解説する動画を生成できる。
しかしAIは、
その漆器そのものを作り出すことはできない。
なぜなら、その漆器の中には、
人間がいるからだ。

「人が、そこにいる。」
この言葉こそが、
今の時代において、
最も尊い価値である。

あらゆるコンテンツが、
機械によって生成できるようになり、
あらゆる画像が、
AIによって合成できるようになり、
目の前にあるすべてのうち、
どれほどが本物なのか、我々が疑い始めたとき――
人の気配が宿るそれらのものこそが、
この時代における、
最後の道標となる。

日本の職人が生み出すものには、
決して複製できない質感がある。
それは単なる素材の違いではない。
単なる技術の差でもない。
そのものの中に、
あるものが宿っているからだ。
時間である。

その包丁は、
一人の人間が、
何十年もの歳月を費やし、
日々研ぎ澄まし、
少しずつ、
自らの理解を、
鋼の中に打ち込んできたものだ。

その豆腐は、
一人の人間が、
毎朝午前3時に起き、
同じ井戸の水を用い、
同じ心を込めて、
作り続けてきたものだ。

その壁は、
一人の人間が、
手を当て、
肌でその声を聞き、
そして鏝(こて)をもって、
一層、また一層と、
その呼びかけに応えて塗り上げたものだ。

これらのものの中には、
人の時間があり、
人の心があり、
人の手がある。
これは、AIが決して生成できないものだ。
AIには時間がなく、
AIには心がなく、
AIには手がないからである。

孔子は「信」についてこう述べた。
「言は必ず信、行ひは必ず果。」
(『論語・子路』より)
口にした言葉は必ず実行し、
なすべき事は必ずやり遂げて結果を出す。

だが今日、我々はこの言葉をさらに深く捉え直すことができる。
「信」とは、
単に言葉の上での誠実さだけを指すのではない。
そこに、一人の生身の人間が存在し、
偽りのない心をもって、
その事を成したのだと――
相手に実感させることなのだ。

あの漆器も、
あの包丁も、
あの豆腐も――
それらは決して嘘をつかない。
なぜなら、それら自身が動かぬ証拠だからだ。
一人の人間が、
確かに存在したことの証明なのだ。

世界中の人々が、
日本を訪れ、
そうした手仕事の品々を買い求めていく。
彼ら自身、なぜこれほど高価なのに、
それでも買いたいと思うのか、うまく説明できないかもしれない。

だが、私にはその理由がわかる。
AIが生成したコンテンツで溢れかえる世界の中で、
彼らは一つの確証を渇望しているのだ。
この品は、本物である、と。

生成されたものではなく、
合成されたものでもなく、
模倣されたものでもない。
一人の生身の人間が、
本物の時間を注ぎ込んで、
作り上げた本物の存在である、と。
これこそが、この時代における、
最も贅沢なものなのだ。

素材の希少さゆえではない。
技術の難しさゆえでもない。
ただ、
「本物であること」そのものの価値なのだ。

二千五百年前、
孔子が最も憂慮したのは、
「巧言令色」の人々であった。
外面ばかりが良く、
内側が空っぽな者たちである。

今日、
我々は、
巧言令色が機械によって大量生産される時代に生きている。
1秒ごとに、
無数のAI生成コンテンツが、
ネット上を流れていく。
そのどれもが、
本物のように見え、
もっともらしく聞こえ、
まるで人が語りかけているかのように感じられる。
しかしその中には、
人間がいない。

この時代において、
あの京都の漆器職人は、
毎朝工房へと向かい、
道具を研ぎ、
漆の状態を確かめ、
昨日の作品にそっと手を触れ、
その温もりを感じ取る。

彼はAIのことなど知らない。
AIに関心などない。
彼はただ、
今日もまた、
自らの仕事をするだけだ。
それが彼自身の仕事であり、
彼の時間であり、
彼の手であり、
彼の心であるからだ。

その漆器こそが、この時代における最も力強い宣言である。
「私はここにいる。これは本物だ。私が作ったのだ。」

「信」は、
AIの時代において、新たな意味を持つようになった。
嘘をつかないことだけに留まらず、
約束を守ることだけに留まらない。
すべてのものが偽造され得る時代にあって、
なおも自らの手を使い、
決して偽造できないものを一つ作り出すこと。
その手こそが、この時代における、
最後の「信」なのだ。

日本の中の「仁義礼智信」
林道悟
日本の日常に宿る美と、東洋の生活の知恵を発信するコラムニスト。