後に、乾隆帝が東巡した際、すでに済南知府に転任していた顔希深を特別に呼んで会いました。(図は『福寿斉天冊・嘉祐四真』、作者不明。パブリックドメイン)

母が倉を開き民を救う──息子は罰されず乾隆帝に抜てきされた理由

地方官だった人物の母親が勝手に倉を開き、穀物を配ってしまったにもかかわらず、息子は罰されるどころか、逆に皇帝に重用されました。これはどういうことなのでしょうか。

清朝の官吏・顔希深は、1729年に生まれました。母の顔太夫人は、正しい道理をよく理解し、義を重んじ、利益にはこだわらない人で、顔希深は幼い頃からその教えを受けて育ちました。官吏になってからも、孝行で清廉で、思いやりがあり、昔の立派な役人のような人柄だったといわれています。

1753年、顔希深は泰安知府に任じられ、その後も順調に昇進しました。彼の官人生で大きな転機となったのは、山東・平度知州にいた時に起こった出来事です。

平度知州に赴任した際、顔希深は故郷・広東連平州から母の顔太夫人を呼び寄せ、山東の官署で共に暮らし、世話をしていました。

ある年の五月、顔希深は山西へ出張に出ていました。その時、平度州では突然豪雨が降り始め、七昼夜も続く大雨で洪水になり、多くの家が水没しました。数万人の住民が逃げ込み、城内に避難しましたが、城内でも水位がどんどん上がり、城壁のほとんどが水に沈んでしまうほどでした。

濁流の中で住民は食べ物を失い、飢えに苦しんで泣き叫び、まさに命の危機でした。しかし顔希深は山西にいて不在で、官署にいた役人たちもどうすることもできませんでした。

この知らせを聞いた顔太夫人は、息子が不在で、住民が一刻を争う状況だと理解し、ある決断を下しました。普段は物価調整のために使う「平倉」を開き、倉の穀物を出して住民を助けるよう求めたのです。しかし、官署の幕僚たちは「絶対にできません」と反対しました。倉の穀物を出すには朝廷の許可が必要で、「勝手に開けば、処罰されたり、穀物を賠償させられたりする」と言ったのです。

これを聞いた顔太夫人は怒り、「平倉は、こういう緊急の時に人を救うためにあるものです。朝廷の許可を待っていたら、住民は餓死してしまいます」と言いました。

幕僚たちが責任を恐れている様子を見て、さらにこう続けました。「私たちの家にはそれなりの財産があります。もし勝手に穀物を出した責任を問われても、全財産を出してでも賠償できます。息子がどう思おうと、この私が一人で責任を負います。あなたたちは気にしなくていいのです!」

その後、顔太夫人は担当官員を呼び、開倉する理由を説明しましたが、官員たちは黙ったままでした。すると顔太夫人は「責任は息子が負います。あなたたちは私を手伝って監督するだけでいいのです」と言い、官員たちは仕方なく従いました。

穀物を受け取った住民たちは、生きる望みを取り戻し、大喜びしました。城内の富豪たちも顔太夫人の行いに感動し、足りない穀物を補うために次々と寄付しました。七日後、洪水が引き、官穀はちょうど尽きました。

山西にいた顔希深は洪水の知らせを聞き、急いで帰ってきました。そして食料を配った経緯を聞くと、笑って「母の判断は本当に正しかった。すぐに報告書を作って、事実を上司に届けてくれ。私はすぐに人を故郷へ送り、財産を売って賠償の準備をする。君たちは責任を負わなくていい」と言いました。

ほどなくして、巡撫 [1] は報告を知り、大急ぎで朝廷に奏上し、顔希深が勝手に倉米を動かしたとして弾劾しました。

[1] 巡撫(じゅんぶ):中国の歴史において、地方の民政・軍事を管轄した長官。

しかし乾隆帝は奏章に目を通し、「お前は大事を任される立場でありながら、こんな立派な母と良い役人を持ちながら推挙せず、逆に弾劾するとは何事か」と批示しました。乾隆帝は顔希深母子の行動を大いに称賛し、顔太夫人を三品誥命夫人 [2] に封じ、救済に使われた穀物は正式な支出として認め、賠償を免除しました。

顔希深はこれを知り、乾隆帝の厚意に深く感謝し、ますます善行に励むようになりました。

その後、乾隆帝が東巡した際、済南知府となっていた顔希深と顔太夫人を特別に呼んで会い、当時食料を配った様子を詳しく聞きました。さらに顔太夫人に牌匾 [3] を贈り、顔希深にも「いずれ重要な役職で用いるべき人材だ」と称えて、将来の重用を示しました。

その後、顔希深は何度も乾隆帝に抜てきされ、最終的には貴州巡撫にまで昇進しました。息子の顔検は部曹主事から直隷総督へ、孫の顔伯燾は翰林から福建総督へ、甥孫の顔以燠は内閣中書から東河総督へと出世し、一族の多くが役職に就きました。

人々は、顔家が官位で成功したのは、顔太夫人の積んだ善行のおかげだと語りました。

昔から「わが子を最もよく知るのは母」という言葉があります。顔太夫人は、倉を開いて民を救えば、息子が官職を失ったり、ときには牢に入る危険さえあることを理解していました。それでも「息子なら、この状況でも人命を優先し、名誉や地位を失うことを惜しまない」と信じていたのです。顔太夫人の思いやりと勇気は人々を感動させ、その心が、民と国のために尽くす立派な官吏を育てたのでした。

出典:『清史稿』『坐花志果』『妙香室叢話巻十三』

 

 [2] 三品誥命夫人: 中国・明清時代の官位制度において、三品官に相当する高位の男性官僚の妻または母に授与された名誉称号。皇帝による正式な勅命(誥命)として与えられるため、社会的に非常に高い身分を示す。

[3] 牌匾(はいへん):建物の入口や堂内・門に掲げる額のこと。乾隆帝が顔太夫人に下賜した名誉の扁額を指し、その徳行を公式に称える最高の表彰として用いられている。

(翻訳編集 日比野真吾)

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