シルクの物語

昔々…

紀元前三千年ごろのそよ風の吹く午後、黄帝の正妃・嫘祖(れいそ)は、自分の庭で茶をすすっていた。桑の木の木陰で茶碗を持ち上げた時、「ポトッ」と小さな物体が茶碗に入った(妃の鼻にぶつかるところだった)。茶碗を覗き込んで驚いた。楕円形の青白い繭(まゆ)が頭上の桑の木から落ちたのだ。落ち着き払って繭をつまみ上げ、捨てようとしたとき、この繭が意外にも柔らかいことに気がついた。硬い殻ではなく繊維質で包まれており、お茶に漬けられたため、さらに柔らかくなっていた。嫘祖が、ほどけた繊維を引っ張っていったら、600メートル以上ある自分の庭の長さにまで伸びていった。好奇心から、さらに繭を集め、ほぐして糸にして、布地を織った。その布地は柔らかく光沢があり、ひんやりとした肌触りだった。

この発見だけに留まらなかった。嫘祖は繭を作る蚕を研究し、桑の葉だけを食べることに気がついた。嫘祖は黄帝を説得し、蚕を養うための桑の木畑を作らせた。繭の糸を紡ぐ糸巻き装置と布を織るための機織りを発明した。側近に自分が学んだことを伝え、養蚕の伝統文化が始まった。

アフタヌーンティーのとんだハプニングから生じた嫘祖の発見は、中国五千年の歴史と絡み合って発展していく。嫘祖は、養蚕の始祖として知られることとなる。

湖北省遠安県の嫘祖文化公園

 

養蚕の伝統文化の始まり

は皆に喜ばれた。強くて軽く優雅である。順応性があり、長所に富み、極めて貴重なものとして扱われるようになった。絹の衣類は、夏は涼しく、冬は暖かく、水気は弾く。染色された絹織物は数世紀にわたり色があせない。

最初の1000年間、絹織物は、皇帝と親戚の衣類、または高位の者のための贈り物だけに生産が限定されていた。時を経て、絹の生産量も増加し、それ以外の社会層の者も絹の所有が許されるようになった。しかし、特定の色、備品、モチーフは、社会層と社会的地位のみの者が使うこととなっていた。例えば、黄色は皇帝のみが使える色だった。異なる軍位は、異なる絹の頭飾りで特徴づけられた。

衣類や飾り以外に、絹は楽器、弓、釣り竿、世界最初の(贅沢な)紙に用いられた。古代の智慧は絹の巻物に記録され、伝えられた。漢朝(紀元前206年から紀元220年)には、貿易通貨の一種として用いられた。

何世紀にもわたり、中国の絹を生産する地域では、娘、母、祖母たちは、1年の半分は蚕を養い、残りの月は絹を収穫し、紡糸、織物、染色、刺繍の作業に専念していた。

機織り用に絹糸を準備する女性たち

 

西洋への伝播

蚕は中国固有のものとして、国外には内密にされ、西洋人は絹がどのように作られるか見当もつかなかった。しかし、絹は世界でも最も求められる繊維の1つとなり、多くの国々が絹の交易を切実に願うようになる。絹製品が中国の国境を越えることは許されたが、養蚕に関しては、国外に秘密を漏らすことは許されず、蚕や卵の密輸で捕らえられた者は処刑された。

機密は2000年間続いたが、移民に伴い韓国とインドに養蚕の知識が少しずつ流れていく(日本には、はるか以前の弥生時代に伝えられたとされる)。紀元440年、地方の民族を代表する王子と中国の皇女の外交的な婚姻が結ばれ、手の込んだ髷(まげ)の中に蚕の卵が収められた。この民族は決して養蚕を外に漏らすことはなく、ヨーロッパのシルク愛好者は、さらに待つことを余儀なくされた。

紀元550年、ユスティニアヌス1世に仕える二人の僧侶が、貴重な蚕の卵を所持品の中に隠し入れて持ち帰ることで、長年にわたり求められていた養蚕の知識がようやく東ローマ帝国の首都ビザンチウムに伝播される。これ以前のローマでは、「水を使って葉の軟毛を摘出する」ことで絹が収穫されると信じられていた(プリニウスの『博物誌』より)。以降、養蚕文化が欧州全域に徐々に行き渡るようになる。

しかし、東洋の絹への思い入れが消えることはなかった。シルクは時間を超える。5000年後、中国の王朝に織りなされた絹は、神韻の舞台に登場することになる。神韻2018の「漢王宮の袖の舞」で、水袖が自分の周りを優雅にたなびく感覚は今も続いている。その後、2~3回、次の演目のためにすばやく着替え、(唐風の衣装を思わせる)天上の羽衣をまとい、雲を漂う。さらに1000年を飛び越えて清朝満州族の淑女と化して、宮殿の庭園内でシルクの頭巾をちらつかせる。まだまだ舞台は終わらない。

今日、絹は国際的な物品となった。しかし未だに古代中国の文明のシンボルとして扱われている。全ては、数千年前の黄帝の妃のアフタヌーンティーから始まった。

 

シルクに関する興味深い事実

・考古学者によると、紀元前2600年以降、ほどきかけの繭(まゆ)がみつかっている。     
・“Serica”は古代ギリシャ語で中国を指し、「シルクの国」という意味。“Seres”はそこに住む人々。
・シルクの交易はシルクロードができる前から行われていた。紀元前1070年のシルクに包まれたエジプトのミイラは、最古の交易の証拠である。
・清の時代(1644-1911年)まで百姓はシルクの着用を許されなかった。

 

――「神韻芸術団」(日本語ホームページ)より転載