観念【ことばの豆知識】

――於勝(おかつ)、診せんか。

苦渋に満ちた顔をして、青洲(せいしゅう)は妹に云った。於勝も観念したのか、治療室に身を横たえた。(有吉佐和子『華岡青洲の妻』)

これは、乳がんで乳房が大きく腫れたにもかかわらず隠していた於勝を、青洲が診察しようとする場面で、「観念した」とは、隠し続けるのを「あきらめた」ということです。

「観念」は元は仏教用語です。「観」とは智慧を持って深く観察すること、「念」とは思念することで、どちらもサンスクリット語の漢訳だそうです。観察し思念する対象はもちろん、仏教の真理や仏の姿で、「我れ一心に極楽を観念するに、他の思ひ出来れば、其の妨(さまたげ)と成る故也」(今昔物語)の「観念」がそうです。

そして、観察・思念がうまくいけば、仏教の真理を悟ることになるのですが、広く一般的な事柄について、何事かがどうしようもない事態に至ったと悟れば、それは「あきらめ」につながります。つまり、「あきらめ」義の「観念する」は仏教用語としての「観念」の延長線上にあるということです。

本来、「迷いから覚め、真理を悟る」という意味の「覚悟」が「覚悟する」の形で「あきらめる」という意味で使われるのと似ていますね。次例の「観念」は悟りとあきらめの両義を兼ねていると考えられます。

・どさくさに紛れて詐術を弄(ろう)する手合であったと観念しなくてはならないのだ。(井伏鱒二『黒い雨』)

「観念」はさらに、「見解」とか「意識」といった意味で使われます。「固定観念」や「経済観念」などがそうです。これは、英語の「idea」の概念を日本語に取り入れる際に、仏教用語の「観念」を当てたことによります。

ところで、中国語の『観念』も元は仏教用語ですが、現代では「見解」「意識」といった意味で使われるのみですので、冒頭の例は中国人には分かりにくいかもしれません。