隔たりが見られる夫婦関係
日常生活において、「聞いているのに頭に入らなかった」や「教えてあげたのに無駄だった」といったコミュニケーションの問題がよく生じます。その最大の理由は、人それぞれの「人生観」や「家庭環境」の異なりによって生じた言葉の表現の違いです。
このような違いは、一生を共にした夫婦の間であっても超えられないことが多いです。
夫婦の愛は、親子の愛を超えたものでなければなりません。なぜなら、夫婦は世界で唯一の真に「裸の付き合い」ができる二人だからです。共に生き、共に死のうとする夫婦がいます。また、夫婦の間では責任と義務だけではなく、命のコミュニケーションの一種だという現実生活の意義を超える考え方をもつ夫婦もいます。
しかし、そうではないことが多いのです。それは、人が自分の「心と精神のパターン」を超えることが難しいからです。日常生活では、同じテーブルで食事をし、同じベッドで寝ていても、コミュニケーションが取れないという問題が生じる可能性があります。
夫婦の中には、ただ一緒に暮らしているだけのパートナーもいれば、さらに悪いことに、妻をメイドとして見ている夫もいますし、夫を長い間働いている労働者として見ている妻もいます。二人の間には義務と責任だけが存在しています。義理はあっても愛はなく、しいて言えば、「条件付き」の愛があればいいだけです。
お酒を飲んだり、ギャンブルをしたり、世間に「悪い」と認められるものに興じる既婚者がいます。これは、精神的な病の反映の一つとも言えます。
人を傷つけるようなことをしていなくても、毎日仕事に行き、異常のない生活を続けていても、心の中では毎日自我をぼんやりさせて、無為に日を送る人がいます。彼らは、「趣味や興味を深める」ことを口実にして、自分に麻酔をかけ、音楽や文章、絵画などの手段を利用し、問題から逃げたり、隠れたりします。
夫婦の間でも、相手が心理的な問題を抱えていることを知らないことが多いようです。隔たりが見られる夫婦関係がまさにそこから由来したのです。
そのうえ、このような心や精神の病気に、自分でも気づきにくいものです。
風が吹いているのを知っていても、その愛撫を感じないし、咲いている花を見ても、その匂いを感じません。このように、妻や夫が話しているのを聞いていても、その声が届いていません。
夫婦の間では、「客観的な存在」としての認識はあっても、「主観的な存在」としての感じ方はありません。「生活のコミュニケーション」はあっても、「心のコミュニケーション」はありません。
実は、友人や同僚の間でも、同じ悩みを抱えているのです。生活と心の距離が離れているため、相手とのコミュニケーションや感情は相対的に表面的なものとなり、夫婦のような深いものにはなりません。
人間は、自分の力で精神的な問題を解決するのは難しいところがあります。この場合は、宗教、心理学者、本、友人などの外界からの力を借りなければなりません。と言っても、これはあくまでも一時的な「避難所」にしかならないことが多いのです。我々は常に自分のためになるチャンスを掴まなければなりません。
(翻訳編集・柳成蔭)