西王母が武帝に桃を贈る 伝説の蟠桃は実在したのか?
『西遊記』の物語で次のような桃のお話が出てきます。玉皇大帝は孫悟空を蟠桃園に派遣して蟠桃園の番をさせましたが、土地神から蟠桃園の桃を食べると仙人になることができて不老不死になれるということを聞いた孫悟空は、お腹がいっぱいになるまで桃を食べ尽くしてしまいました。
小説の中で、土地神の説明によると、蟠桃園には、三千六百本の桃の木があり、手前の千二百本は、三千年に一度熟し、これを食べた者は仙人になれ、中ほどの千二百本は、六千年に一度熟し、これを食べた者は、長生不老が得られ、奥の千二百本は、九千年に一度熟し、これを食べた者は天地のあらん限り生き永らえるとされます。
神話の中で出てくる蟠桃ですが、歴史上では中国前漢の第7代皇帝、武帝が西王母から蟠桃を授かったとの記載があります。武帝は桃を食べた後、種を残しましたが、明の時代の時にそれを見た人がいると言います。
武帝は生まれつき才知に優れ、3歳のときには上古からの聖賢の著作や、陰陽五行および国の政策に関する文書など数万字に達する古典を一文字も間違えずに暗記することができました。7歳の時、父親の景帝は、彼があまりにも聡明で透徹していたので、彼の名前を劉徹と変えました。
武帝は即位後、治世のほか仙人道術の修煉にも夢中になり、名山大河や五嶽(中国で古来崇拝される五つの名山)をよく訪問し、神霊を祀りました。
元封元年4月のある日、武帝が承華殿で大臣と話している時、青の色の衣装の綺麗な娘が目の前に現れ、「私は天宮の天女で、西王母の命令で王様を見に崑崙山から来ました」と言い、武帝にその日から国事は問わず、齋戒に専念するとことを求めました。そして7月7日になると、西王母が自ら承華殿に臨むと告げると、さっと姿が消えました。
その日から武帝は国の政務を宰相に任せ、自分は仙人を迎える居館で一心に齋戒し始めました。
7月7日その日がやって来ると、武帝は承華殿に西王母の玉座を設置し、床に濃い紫色の高貴なカーペットを敷き、ユリの香りの練香を薫き、明るくろうそくを灯し、極上の果物や美酒を並べました。武帝は誰も大殿の中を覗かないように命じ、華麗な礼服を着て、玉の階段の下で恭しく西王母の到来を待ちました。
夜中になると、西王母は九色の龍が引く紫雲仙車に乗って承華殿に降りました。それと共に簫(しょう)と鼓で奏でる美しい仙楽が鳴り響き、数千の仙人が西王母の左右に仕え、仙人たちの放つ光は宮殿を眩しく照らしました。西王母が仙車から降りてくると随従の仙人たちは姿を消し、50人ぐらいの背丈が高い侍衛の仙人だけが残りました。彼らは金剛寶印を身に付け、頭には天真冠をかぶり、手に儀仗(ぎじょう)を持って整然と宮殿の前に立っていました。西王母が席に着くと、武帝は恭しく五体投地の礼をしました。西王母は天宮の調理師を連れてきましたが、彼らが持ってきた果物と美酒は名も知らない珍しいものでした。宴会の途中に、西王母は仕える天女に仙桃を持ってくるよう命じました。しばらくすると天女は玉の皿に7個の桃を持ってきました。桃は淡い青色をしていて、西王母は武帝に4個をあげ、自分は3個食べました。
武帝が桃を食べてみると、とても甘くて美味しくて、食べ終わった桃の種は全て保存しました。西王母がなぜ種を保存するのかと聞くと、武帝は、後日植えてみたいと答えました。西王母は「この仙桃は三千年に一回実がなるもの、不毛な人間の土地では育てられないでしょう」と言いました。
その後、仙桃の種の行方は不明となりましたが、明の時代の官僚、王世貞(おう せいてい)が著した『宛委餘編』では、明王朝の皇帝朱元璋が治世した洪武の年の時、元王朝(明王朝前の王朝)の宮廷府庫から桃の種が見つかったと記載されています。その種は長さが15㎝くらい、幅は12㎝ぐらいもあり、そこには「西王母が承華殿で武帝に蟠桃を贈った」と書かれていたそうです。
参考資料:
『漢武帝內傳』
『宛委餘編』
(翻訳編集・唐玉)