唐太宗、中国書道文化の功臣?
隋が滅んで間もなく、日本では聖徳太子が亡くなり4年後の629年、中国史上で最も有名な皇帝の一人である唐太宗(タン・タイゾン)が即位した。太宗は清廉潔白な政治を行い、部下の才能に応じて採用したことにより、唐は「貞観の治」と呼ばれる中国の政治的に理想時代を迎えた。
唐太宗は傑出した政治家、軍事家、賢明な君主として歴史に名を残した一方で、実は芸術および書道に造詣が深く、自ら書をたしなみ、大変な能筆家でもあった。
唐太宗が残した作品の中でも「晋祠銘(ジンチーミン)」と「温泉銘(ウェンチュアンミン)」は中国書道史の中で燦然(さんぜん)と輝く傑作で、前者の筆勢は力強く、後者は健やかで流麗、王羲之(おうぎし)の書法が伺われる一つ一つの文字には太宗の才知が垣間見られ、行間を漂う風格はまさに帝王らしく格調高い。
唐太宗の書への情熱は自らの書の成就の中だけにとどまらず、即位するとすぐに本殿の右側に『弘文館』を設立した。館内では欧陽詢(オウ・ヤンシュン)と虞世南(ユウ・シーナン)が教授しており、一定の身分の者であれば、これらの超一流の書家に書を学ぶことができた。
また国の役人や人材を採用する際に「書道」を科挙[1]の必須項目として取り入れ制度化した。太宗が書道芸術を提唱したため、書道をたしなむことが流行し、当時の文人官吏がこぞって書道芸術の研究に勤しんだ。
「弘法筆を選ばず」の言葉でも有名な日本の能筆家、弘法大師、空海もこの時代、中国に留学しており王羲之の書法を学び、「風信帖」などの素晴らしい書を残した。
唐の時代は数々の書の天才が生まれている。
欧陽詢(オウ・ヤンシュン)、虞世南(ユウ・シーナン)、柳公権(リュウ・ゴンチュアン)、顔真卿(ヤン・ゼンチン)、孫過庭(スン・グォティン)、褚遂良(チュー・スイリァン)など名前をあげれば枚挙にいとまがない。
これらの書家の作品は後世の書家の手本となり、以後それぞれの王朝で、また新しい書道文化を作り上げた。唐太宗は中国歴史上の「賢君」だけでなく、中国書道史上における最大の「功臣」でもあるとも言える。
ただ、太宗はあまりに王羲之の書を愛するが故に、「蘭亭序」をはじめとする王羲之の真蹟[2]を、自分の墓所である「昭陵」の副葬品にしてしまった。現在、私たちが目にする「蘭亭序」は全てが真蹟を精緻に臨模[3]したものだ。
臨模したものとはいえ、書としてずば抜けており、多くの書家がこれで王羲之の書法を学んだであろう。しかし臨模したものでさえこんなに素晴らしいのなら、その「真蹟」は一体どのようなものだったのだろうと唐太宗のわがままを恨めしく感じている人も少なくないに違いない。
[1](かきょ)隋代に始まり、清代に廃止された官吏採用の試験制度
[2](しんせき)その本人が書いたもの、真筆
[3](りんも)真蹟を横において能筆家が書き写したもの
(大道修)