≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(60)

私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。そうなれば、養母はきっと私のことを許してくれないはずです。

 そのときちょうど、養母は趙玉恒のそばに腰をかがめ、何やら小声で囁いていました。その瞬間、私は頭に閃きを感じ、二人がひそひそと何か話している隙に、急いで東の間から飛び出しました。

 そのとき、私は急に落ち着いた気分になりました。私はもう13歳で、4年生になっており、すでに「トンヤンシー」なるものが何であるのか知っていたし、謝家で仕事をしているときに、このことばがもつ恐怖と悲しさを知っていました。謝家の四女が逃げ出した一幕が私の脳裏に浮かびました。だからこそ、私もまたこの家を出なくてはなりません。

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災難がついに到来 秋になると、養母は人に手紙を託して、私に一度帰るように促しました。我が家が新しい村に移ってから、私は一度もまだ帰っていませんでした。
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。