≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(68)

合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。全科目満点の成績で、合格者リストの一番上に名前が書かれていました。

 教育担当助手の話を聞き終えると、鐘玉恵おじさんは大変驚きました。私は中学受験のことをずっと伏せていたからです。しかし、おじさんは私の合格を嬉しそうに祝福してくれました。おばさんの反応は私が予想したとおりでしたが、そんなことは気にしません。合格さえすれば、寧安の学校に進学できるのですから。

 先生の話では、私は中学で国の奨学金を受けることができるということで、自分の将来に自信が満ち溢れてきました。

 当時、おじさんはカウンターから掛け布団と敷布団を取り出して私に与えてくれました。さらにほうろう製の洗面器とプラスチック製の石鹸箱もくれました。これらの品は、後々私が結婚して家庭を持ってもずっと使い続けました。

 私は今でもこのおじさんには本当に感謝しています。私にソロバンを教えてくれただけでなく、私が本が好きなのを見て、家に残しておいた本を探し出してきて読ませてくれました。本当にやさしい人でした。

 おじさんも本当は、私に店に残って手伝ってほしいと思っていましたが、私が優秀な成績で合格したので、喜んで私のために進学の準備をしてくれました。これらのことは、ずいぶん長い間父母の愛情とは無だった私にとって、とても貴重なもので、永遠に忘れることができませんでした。

 私が卒業して仕事をするようになっても、おじさんのことは忘れることがなく、毎年会いに帰りました。結婚してからも、夫、子供ともども、おじさんを実の家族のように慕っていました。おじさんのほうも、私が日本に帰国するまでずっと、しょっちゅう我が家に遊びにきてくれたものです。私とおじさんの縁はとても深いものでした。

 孫おじさんは、私が中学に合格したのを聞き及んで大変喜び、鐘家まで私に会いに来てくれました。おじさんは、まるで私の本当の親のように、鐘玉恵おじさんに慇懃に礼を述べ、さらに鐘おじさんの店で私のために寄宿用の日用品や文具類を買ってくれました。

 沙蘭鎮を離れる前に、私は学校に行って先生たちにお別れの挨拶をしました。私にとって、この沙蘭小学校は中国での最初の母校で、しかも人情味溢れる温かな母校でもありました。ここの先生たちは、私が日本人の子供だからといって差別したり虐めたりすることはありませんでした。逆に、先生たちは皆、私に同情し、常に私を慰め励ましてくれました。そのため、小学校にいた時期には、私が将来、「日本人の子供」だという政治的な背景が理由で、進学に大きな障害と影響をもたらすことになるなどとは考えてもみませんでした。

 私は出発する日の朝早くに謝おばあさんのところへお別れのあいさつに行きました。中学受験のことを黙っていたことを心からお詫びしました。おばあさんはそれを許してくれ、感慨深げにこう言いました。

 「自分で生んだ子供たちには、もっと勉強に励んでもらい、合格しさえすれば進学させてやろうと思っていたんだけど、結局娘4人とも根性なしで、中学にはどの娘も受からなかった。お前と張黎は、誰も勉強しろなどと言わなかったし、進学させてやろうとも思っていなかったのに、二人とも本当に勉強がよくできた。頑張り屋さんだったからだね。私の子供たちには、あなたたちのような頑張り屋は一人もいない。条件がいいと、頑張らなくなるのかもしれないね」

 私には、謝おばあさんが自分の子供たちにひどく失望し悲しく思っているのがわかりました。

 私と弟の二人が戦後この沙蘭に来てから8年が経ち、1954年の夏、私はこの終生忘れることのできない沙蘭鎮を離れることになりました。子供時代の苦難に別れを告げ、私の人生は新たな段階へと踏み出そうとしていました。

 しかし、抱いていた進学後の甘く美しい幻想とは裏腹に、生母が話してくれた、嵐の中でも決してあきらめてはいけないという物語がまだ終わっていなかったとは思いもよりませんでした。故国日本の地を踏むまで、私の人生は、波乱の一幕一幕を演じ続けることになるのでした。

 (続く)