≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(54)
【大紀元日本12月13日】区役所の人たちが私たち子どもに、「明日、東京の町に行って会合に出なければいけない。皆朝早く駅に集合すること。遅刻しないように」と言いました。
翌日、私は朝早く駅に行きました。大きい雪がはらはらと落ちていたのを覚えています。気温は低く、立っていると足がひどく凍えました。早く来たのは何かを期待しているかのように感じていましたが、それが何であるかはっきりとはしませんでした。
間もなく皆が来ました。私たち子どものほかに多くの大人の女性がいました。彼女たちは皆日本語が話せました。
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災難がついに到来 秋になると、養母は人に手紙を託して、私に一度帰るように促しました。我が家が新しい村に移ってから、私は一度もまだ帰っていませんでした。
私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。