時代と民族を超える輪廻の旅(1)
中国では、全ての人が輪廻を信じているわけではないが、「縁」は、ほとんど誰もが信じている。縁とは、無数の目に見えない鎖のようなもので、自分に関係する人たちを生命の中につなぎ合わせる。その中に、親類や友人もいれば敵もいる。
ある人に言わせると、愛とは縁であり、恨みも縁であり、出会いも離別も縁である。この世の悲喜こもごもが全て、「縁」の一字で説明できる。では、そのような縁とは、一体どのように形成されるのか?実は、縁という考えは輪廻の思想から来ており、縁について明確に説明しようとしたら、まず輪廻について明らかにしなくてはならない。
輪廻の思想は本来、中国の伝統文化を構成する重要な一部分であり、数千年に渡る歴史の発展過程で中国人の骨髄に沁みこんでいる。かつて人々は、今世の福禍は、前世の善悪と恩讐に根ざすと信じていた。もし、一切の因縁を明らかにしようとすれば、私たちは目を前世、さらにはもっと先の前世にまで向けなくてはならない。
ところが、近代以降の中国では、伝統文化に対して懐疑的な目が向けられ、文革当時には壊滅の危機に瀕した。輪廻等の伝統思想もまた、ここ数十年来迷信としてみなされ、批判されてきた。ところが、同じ時期、西洋では、探索の精神、厳粛なアカデミズム、相対的に自由な学風が互いに融合し、輪廻に対する研究が盛んになり始めた。西洋人は現在、輪廻に対して認識し始めただけでなく、「縁」についても次第に理解し始めている。
古今、輪廻の話は枚挙にいとまがない。これらの話は、様々な時代、いろいろな民族、異なる信仰を持つ人たちの間で起こっている。これは一体何を意味しているのだろうか?
かつては、世界中で民族を問わず、輪廻を信じていた。しかし、現在では、政治的な原因や科学の発達などにより、多くの人たちがこれを信じなくなった。例えば、中国大陸では、共産党が政権を執って以来、輪廻の考え方自体が迷信とみなされ批判されてきた。しかし、一方で、輪廻転生の世界を信じている人たちもまた少なくない。ただ、信じようが信じまいが、輪廻の話は尽きることがなく、関係する報道も絶えることがないというのもまた事実である。
時が経ち、今日、一切のタブーが緩み始めている。宗教的な教義が緩み始め、科学の限界が人々から指摘されており、西洋では今、輪廻について論じ始められている。また、政治は、未知と神秘を追及しようとする人類の本質を封殺し切ることはできず、中国大陸においても、輪廻の説が再び公衆の議論の中へと入り込み始めており、関係する報道も出始めた。
例えば、2002年発刊の雑誌『東方女性』に輪廻に関するこんな記事が掲載されている。唐江山という男の子は、3歳のころから自らの前世について語り始め、かつて習ったことのない前世の故郷の方言まで話し始めたという。後に、家人が男児の要求通りに、「前世」の家に連れて行ったところ、男児は前世の家族について覚えていたばかりか、描写した情況も歴史的に完全に一致していたので、両家の家族と近所の人々は驚愕したという。
海外でも、2006年発刊『ザ・サン紙』に同様の記事が掲載された。マッコリーという男の子は、6歳のころから自らの前世の家庭について語りはじめた。後に、両親がその子の指定する場所まで連れて行くと、それが嘘ではないことが分かったという。