三義広場(trikehawks / PIXTA)

三顧の礼【ことわざ】

ある人が劉備に諸葛亮を推薦しました。彼が稀代の天才だというのです。そこで劉備は、関羽と張飛を連れて隆中の諸葛亮に会いに行きました。ところが、諸葛亮はあいにく不在で、どこに行ったのか、いつ戻るのか、わかりませんでした。劉備は非常に残念でしたが、しかたなく引き返すことにしました。

数日後、劉備は再び隆中に行こうとします。すると、張飛が「人をやってやつを呼んでくればいいじゃありませんか」と言い、劉備はそれを叱りました。三人が道の半ばまで行った時、大雪が降ってきました。張飛がまた、「天気が冷え込んで地面も凍っています。引き返しませんか」と言いましたが、劉備はとり合いませんでした。

ただ、はからずも、諸葛亮はまた不在だったのです。劉備は嘆息して、「私にはどうしてこう福徳がないのだろうか。先生に会うこともできない」と、未練を捨て切れずに引き返しました。

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劉備と張飛との出会いに続いて、ついに関羽の登場です。張飛の声は雷のごとく、勢いは奔馬のごとくというものでしたが、関羽の相貌は神将のごとく、一身に神威を帯びており、一見しただけで人々に畏敬の念を覚えさせるものでした。関羽は身の丈9尺(後漢の尺度では約208cm)、髭の長さは2尺(同じく約46cm)、熟した棗(ナツメ)の様な紅顔、唇は朱を塗ったよう、切れ長の目、太く逞しい眉を持ち、その風貌は堂々たるもので、威風は凛々たるものでした。
董卓が廃帝を強行したことは、「帝は帝ではなく、王は王ではない」という予言が完全に当たったことを意味します。では、歴史が天命によって定められているのであれば、漢の末期に三国が共存したのはなぜでしょうか。
劉備は仁徳あることで有名です。関羽や張飛と兄弟のように接し、ともに数々の苦難を乗り越えました。諸葛亮を迎える際に三度も訪ね、死ぬ間際も、諸葛亮に対し、自分の息子がもし大事を成すことができる人なら補佐を頼むが、その器がないなら、取って代わっても良いと言ったのです。
前回は、精神的に支え合ってくれる友人を大切にすべきことを話しました。これ以外に、友人間で大事にしなければならないのは「義(義理)」です。 三国時代はまさに「義」とは何かを後世に伝えています。劉備、曹操、諸葛亮、張飛などの武将のことを多くの人が知っています。中でも忠義を貫いた武将がいます。それが関羽です。では、関羽は何をしたのでしょうか。