毎年、4月4日または5日に清明節が訪れます。日本で清明節と言えば、沖縄が特に注目され、中国と同様、祖先を祭り墓を清掃する風習があります。しかし、昔の清明節は、桜を愛でながら宴を楽しむといった行事でした。
唐と明代の風習を受け継ぐ清明節
日本の清明節は、唐代と明代の風習を受け継いでいます。唐以前の中国では、清明節は祖先を祭り墓を清掃する日ではなく、春のピクニックやお花見を楽しむ宴会の日でした(実際に墓を清掃し祖先を祭る日は、清明の前の寒食節です)。
清明節は春分の日から15日目に設けられており、「清明」は24節気の一つです。清明とは、陽の気が盛んで、空気が澄み、景色が明るく、万物が生き生きとしており、山は若芽に生い茂り、水は清らかで、花々は咲き誇り、穏やかで清らかな景色が広がっているといったイメージです。
唐代には、清明の時期に合わせて、春の外出や花を楽しむ宴会が盛んに行われ、人々は春の美しい光景や花々の競演を存分に楽しみ、心身ともに活気に満ちた春を感じてきました。多くの文人・墨客が温かな陽光を浴びながら、川辺で酒を楽しみ詩を詠みました。目に映るのは花々が咲き誇る色彩豊かな光景ばかりでした。
後に詩を詠み酒を飲む「曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)」、つまり、曲がりくねった水路の上流から酒杯を流し、それが自分の目の前を通過するまでに詩歌を詠むという風雅な春の遊びへと発展しました。
言い伝えによると、唐代の宮廷では桜などの春の花でいっぱいで、お花見宴会が行われていました。当時の様子は、唐代の代表的詩人の一人である白居易が作った詩に表されています。「花開き花落つ二十日。一城の人皆狂ふが如し」、花が咲いてから散るまでの20日間、城内の人々はまるで狂ったように花を愛でるという意味です。
五代十国時代の説話集『開元天宝遺事』によれば、唐代の学者は、春の訪れを祝して毎年野外で宴会を開き、親しい友人たちを招待しました。許慎の宴会では、花びらを集めて庭に敷き、客人をその上に座らせて花見を楽しんでいました。
その後、この宴会が流行し始め、文才と風流を兼ね備えた宴会と花を題材にした詩を詠むことは、唐以前の典型的な文化となりました。その後、この風習は平安時代に日本に伝わりました。平安時代には貴族の間のたしなみに限られていましたが、江戸時代に入ると一般の人々にも広まりました。
今では桜を楽しむ季節になると、人々は水辺で宴会を開き、桜の木の下で歌や踊り、杯を交わしながら春の訪れを祝います。春の訪れを花とともに楽しむ、この慣習は日本の国民的な大イベントとなり、今では世界中で有名です。
残念ながら、桜は唐の時代とともに中国の歴史の舞台から姿を消し、梅がその地位を引き継ぎました。梅は君子の品性と風格を表すとして、忠義を尊ぶ宋代の文人に敬愛されました。そのため、清明の前後に桜が満開になる時期に、日本中で桜を楽しむ宴が催される様子を見ると、自然と盛唐の時代を連想させてくれます。
また綱引きや蹴鞠、凧揚げ、ブランコなど、私たちが親しんでいた様々な遊びもまた、唐代の清明節に流行していました。
墓の清掃や祖先へのお参りは、唐代以前は寒食節に行われていました。寒食節は、春秋時代の晋の文公が忠臣の介子推の焼死を弔って火を使わず、冷たい食べ物を食べるようになったことに由来しています。
寒食節は、清明の直前にあり、宋の時代以降、冷たい食べ物を避け、孝道を重んじるようになったため、清明節に吸収される形で、現在の清明節に至りました。このようにして、先祖を追悼し尊ぶ孝行と、春の宴会やお花見を楽しむといった全く異なる行事が奇妙に融合するようになったのです。
この習慣は明代に福建から沖縄に伝わりました。当時の沖縄は琉球王国で、廃藩置県の以前は明の文化に深く影響を受けて独自の文化を有していました。そのため、沖縄の清明節は、明の文化遺産を色濃く反映し、祖先を祭り墓を掃除するという、日本本土とは異なる風習を持っています。
したがって、正確に言えば、日本の清明節は唐代の前後にわたる2つの異なる文化を継承しています。
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