古代中国では、異国を最も遠くへ旅したのは商人でもなく、軍人でもなく、文人でもなく、僧侶でした。
玄奘三蔵の天竺行がよく知られていますが、法顕はそれより200年以上早く数万キロ歩いて、天竺(インド)に仏教の経典を求めて行きました。しかし、パミール高原を越えたとき玄奘は30歳、法顕はすでに60歳を超えました。
3歳で僧侶になる
法顕(ほっけん)は、俗姓は龔、西暦 337 年頃に、現在の山西省臨汾で生まれました。当時平陽と呼ばれていました。平陽郡は羯族(けつ)によって建てられた後趙王朝の統治下にあり、ほどんどの羯族の人は仏教を信じていました。
法顕には3人の兄がおり、子供時代に亡くなりました。仏教を信じていた両親は、小さな法顕も災難に遭わないように、3歳の時に出家させ、仏陀や菩薩の加護を求めました。しかし、年齢が幼かったため、小さな法顕はまだ家で暮らしていました。
数年後、小さな法顕は重い病にかかり、命を落としそうになったので、父親はすぐに彼を宝峰寺に送りました。わずか寺で2泊しただけで、症状は和らぎました。回復後、小さな法顕は俗家には戻りたくありませんでした。母親は寂しかったので、息子に会いやすいように寺の門の外に小さな家を建てました。
法顕が10歳の時、父親が亡くなりました。その後、母親も亡くなりました。法顕は家に戻って葬儀を行った後、すぐに寺に戻りました。
当時、寺院は土地を所有していました。ある日、法顕は数十人の僧侶と一緒に稲刈りをしていました、飢えた盗賊が寺院の食糧を奪おうとしました。他の僧侶は怖がって逃げ出しましたが、法顕だけは立ち止まり、盗賊に言いました。
「食べ物が必要なら、取ってもいい。ただし、今日の貧困は、過去の悪行の報いだ。もし今でも他人の食べ物を奪うなら、来世はさらに貧しいことになるはずだ。私は本当にあなたたちのことが心配だ!」と。そして寺院に戻りました。その言葉に啓発された盗賊たちは、食糧を放棄して去って行きました。寺内の数百の僧侶たちは感服しました。
20歳の時、法顕は具足戒を受け、250の戒律を持つ僧侶となりました。それ以降、法顕はますます精進し、経典を熟読し、仏教の礼法や規則に忠実に従うようになりました。当時、彼は「志行明敏、儀軌整粛なり」(志や行いはハッキリしていて俊敏で、きっちりしていて厳粛である)と賞賛されました。
生死をかけた法を求める道
法顕が僧侶になって60年以上経ちましたが、常に漢地(中国)の経典と戒律共に錯誤や欠落があるのを嘆いていました。当時、戒律は完備されておらず、僧侶は従うべき原則がなく、更に上層の僧侶は仏法を乱して、僧侶の行動を規範する経典もありませんでした。法顕は、本物の経典を手に入れ、それを漢文に翻訳することで、問題を正すことができ、僧侶が仏法の本当の意味を理解できると考えていました。
東晋隆安三年(西暦399年)、既に花甲(六十歳)を過ぎていた法顕は、経典と戒律を求めるため西の天竺(インド)に行くことを決意しました。当時、彼とともに旅立ったのは慧景、道整、慧應、慧嵬四人の仲間でした。
400年、法顕と仲間の五人は甘粛省の張掖に到着し、智嚴、慧簡、僧紹、寶雲、僧景の五人と出会い、その後慧達を加えて、計11人となり、西の敦煌に到達しました。
太守李浩の支援を受けて、陽関を出て、西に進みました。白龍堆大砂漠を横断しました。途中、砂漠には耐えられないほどの熱風が頻繁に発生し、流砂に埋もれて見えず、落ちれば命を失うかもしれない「砂の河」がありました。上には飛ぶ鳥もなく、下には走っている獣もおらず、見渡す限り何もないので、太陽の位置を見て方向を判断し、道半ばで倒れた死者の枯骨をもとに道標を決めました。
17昼夜をかけて、1500里(約750キロメートル)を旅した後、法顕一行は古代に楼蘭と呼ばれる当時西域の小国鄯善に到着しました。そこで1か月程度滞在して、旅を続けました。その後、1か月以上かけて「入ったら出られない」と言われるタクラマカン砂漠を無事に超え、401年初めに于闐国(新疆の和田)に到着しました。
(つづく)
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