【法顕】玄奘より200年以上前に天竺に仏教の経典を求めた者(2)

公元402年、法顕一行はシルクロードの「死の地」として知られる葱嶺(パミール高原)を越えました。この地域で盗賊が横行し、数え切れないほどの商人が命を落としました。山の積雪は一年を通じても溶けず、法顕は何度も雪崩を目撃しました。

崖がそびえ立ち、険しい山道なので、過去に人が岩石を掘り抜いて、通路を建てました。65歳の法顕は700段以上の階段を登り、川に架かるロープを掴んで、川を渡りました。同様の危険な道は数十箇所ありますが、漢代の張騫や甘英ですら到達しなかった場所です。

南下する途中、小雪山(アフガニスタンのスナマン山)で、出発時の一行は行方不明になったり、病死したり、折り返した者もあり、結局、法顕、慧景、道整だけが残りました。

三人は長年の積雪に覆われた小雪山を越え、山の北側に登っていた時、突然冷たい風が吹いてきました、慧景は寒さに耐えられず、震えながら法顕に言いました。「私はすぐ死にます。皆さんは前に進んでください。全員がここで命を落とすわけにはいかない」

そう言い終わると彼は息を引き取りました。法顕は慧景の遺体を撫でながら言いました。「取経の大願はまだ叶っていないのに、君は早くも去ってしまった。それは運命だ」

そして法顕と道整は涙を流しながら前に進み、小雪山を越えて羅夷国に到着しました。天竺国に近づき、王舎城からまだ30里ほど離れたところで、夕方になりました。法顕は釈迦牟尼仏が説法をした有名な仏寺に宿泊し、翌日靈鷲山に向かう準備をしました。寺の僧侶は法顕に「道は険しいし、たくさんの黒いライオンがいます。過去に人を襲ったこともあります。どうして行くのですか?」と勧めました。

法顕は行くことを決意し、みんなが止めることができなかったため、二人の僧侶を派遣し、護送させました。靈鷲山に到着した時、夕暮れ時でした。法顕は山で一夜を過ごすつもりでしたが、二人の僧侶は怖くて逃げ帰ってしまいました。法顕は一人山に残り、香を焚き、礼拝し、聖地を眺めました。

夜になると、突然、三匹の黒いライオンが現れ、法顕の前にしゃがみこみ、舌なめずりをし、尾を振りながら法顕を睨みつけました。法顕はまるでライオンを見ていないかのように経を唱え続けました。彼は黙って「もし私を食べたいなら、経を唱え終わるのを待ちなさい。もし私を試練したいなら、早くたちさりなさい」と念じました。するとしばらくして、ライオンは去っていきました。

公元402年、法顕は天竺に到着しました。当時、天竺は大小30以上の国から構成されていました。法顕と道整は各国を巡り、聖地を訪れ、経典を求めました。当時、経典の伝承は口頭で行われており、既成の経典はほとんどありませんでした。そこで法顕は梵語の学習を始め、経典を写し、毎日、僧侶の口述を聞きながら、書き留めました。数年にわたって、法顕は《摩訶僧祇律》などの六部経典を書きました。

『摩訶僧祇律』檀香山博物館蔵(パブリックドメイン)

道整は天竺の仏教の秩序が正しく、僧侶の品格に感銘を受けました。漢地の政治混乱や戒律の不完全さを嘆いていた道整は仏教の聖地である天竺に留まり、帰国したくありませんでした。

しかし、法顕は初心を変えず、経典を漢地に広めることを実現するために、帰国することを決めました。道整と別れて、一人で南天竺と東天竺を巡りました。

公元409年末、法顕はベンガル湾を渡り、シンハラ国(スリランカ)に到着しました。そこで中国に存在しなかった四部の仏典を入手しました。法顕の行動は現地の一人の信徒の心を動かし、この信徒が『大般泥洹経』を写本し、法顕に与えました。

(つづく)
 

秦順天