春秋戦国時代、斉国に晏嬰という名声の高い賢明な宰相がいました。写真はイメージです。(アルンコ / PIXTA)

終生を託された人の道【伝統文化】

春秋戦国時代、斉国に晏嬰(あんえい)という名声の高い賢明な宰相がいました。斉国の君主である景公にはとても可愛がっている娘がおり、晏嬰の有能さを知り、娘を晏嬰に嫁がせようと考えたのです。そこで、景公はわざわざ晏嬰の家を訪れ、二人は胸襟を開いて心行くまで杯を酌み交わしました。

宴席で、景公は晏嬰の妻も忙しく客人をもてなしているところを見かけ、晏嬰に「あの人はそちの奥さんかね」と尋ねます。晏嬰は景公の胸の内が分からず、「そうでございます。私の妻です」とありのままに答えました。すると、景公はため息をついて、「年老いているし、なんと醜いことか。私には若く美しい娘がいる。そちの妻として嫁がせようと思うのだが、いかがなものか」。

そのことばを聞いた晏嬰は、箸を下ろすとすぐさま立ち上がり、恭しくはっきりと景公にこう答えました。

「妻はもう若くはなく、美しくもございません。しかし、私はもう長い間、妻とともに暮らしております。女が嫁ぐということは、自分の一生をその人に託すということでございます。妻は、若いときに、私の貴賎も容貌も問うことなく、自分の一生を私に託し、私はそれを受け入れました。今、陛下がお嬢様を私に嫁がせようとなさっていることはとても光栄なことではございますが、人間として、私はすでに、天に誓って、私に一生を託した妻の情を受け入れました。どうして、今、その情に背いて他の人を受け入れることができましょうか」。

▶ 続きを読む
関連記事
宋の時代に、ある人が一つの宝石を手にいれます。彼はこれを斉の大夫・子罕(しかん)に献上しようとしましたが、子罕はこれを受け取りませんでした。「この玉は宝石の専門家に鑑定してもらった本物の宝石です。あなた様に献上したいのです」といいます。それに対して子罕は、「私は貪りを宝としません。あなたは宝石を宝としているので、もし宝石を私にくれたら、私たちは二人とも、自分の宝を失うことになります。それならやはり各自で宝を保管したほうがいいでしょう」と答え、宝石を受け取りませんでした。
中国政府は、西部の少数民族に対して、現地の言語教育を制限し、漢民族の標準言語「漢語」教育を加速させている。漢民族文化への同化政策を押し進めている。
西洋の人々に「中国の伝統文化」と言えば何を連想しますかと尋ねると、多くの方は、「北京五輪の開会式で見た、美しい衣装をまとった踊り手たち」「HERO(ヒーロー)のような映画に見られる武術の動き」「うちの大学で開設された孔子学院のカリキュラム内容」のような回答をされることでしょう。
東アジアの海の上という、おもしろい位置に日本がある。「おもしろい」と言ったのは、大国である中国の隣国の一つでありながら、海を隔てているせいか、その影響の受け方が地続きの国とはまた違った、独特の道をたどってきたからだ。
中国伝統文化において、中国人は礼を重んじてきました。その中でも、茶で客をもてなすことは礼のひとつとして重要な位置を占め、宋の時代にはかなり流行しました。