将軍たちの因果応報
中国の史書には、無実の人を殺戮する武将が応報に遭うという話がたくさん記載されています。『明史』と『史記・李将軍列伝』から抜粋した二つの話をご紹介しましょう。
明朝の初代皇帝である朱元璋(しゅ・ げんしょう)には、徐達(じょ たつ)と常遇春(じょう ぐうしゅん)という二人の武将がいました。常遇春は敵の城を攻め落とした後、3千人近い捕虜を生き埋めにしました。一方、徐達の兵はどこへ行っても、決して罪のない庶民を傷つけることはしませんでした。
徐達は死後、「中山王」という位が贈られ、その爵位は子孫の代にまで受け継がれました。一方、常遇春は40歳の時に、病であっという間に亡くなりました。彼は死後、「開平王」という位を贈られましたが、息子の常茂はその爵位を受け継いでまもなく竜州へ左遷されました。
徐達と常遇春は同等の功労と名声があったにもかかわらず、因果応報に大きな違いがありました。
朱元璋はかつて、将校たちに言いました。「将軍たる者、乱暴に人を殺さなければ、国家だけでなく、あなたの子孫の代まで恩恵を報いる」。まさにその通りだったのです。
*漢朝将軍・李広が受けた報い
前漢(紀元前206〜8年)の第7代皇帝・武帝の時代、李広(り こう)という優れた武将がいました。彼は弓と馬術に長け、「飛将軍」と呼ばれていました。
李広が右北平(ゆうほくへい)という地域を鎮守した時、匈奴は彼を恐れて長年境内へ侵入することができませんでした。しかし、彼の功績は認めてもらえず、爵位を得ることが出来ませんでした。
彼は不思議に思い、占い師に尋ねました。「特に優れたところがあるわけでもないのに、戦功が認められて諸侯に封じられた者が数十人といる。一方、私は勇猛果敢に戦に臨んでいるのに、功労も無ければ諸侯にも封じられない。私が爵位を得られないのは、運命なのか?」
占い師は言いました。「あなたは過去に、良心に恥じるようなことをしなかったでしょうか。考えてみて下さい」。すると李広は、「かつて隴西(ろうせい)を鎮守していた時、すでに投降した800人余りの兵士を一人残らず殺したことを思い出した。この事は、今でも悔やんでいる」と嘆きました。
占い師は、「将軍がずっと諸侯に封じられないのは、これが原因でしょう」と彼に伝えました。
その後、匈奴攻撃の時、李広は武帝の密命を受けた大将軍・衛青によって搦手の軍(後方部隊)に回されてしまいました。李広が道に迷って戦いに遅れると、衛青は彼を厳しく問いただしました。李広はあまりの悔しさに、自ら首を切り自殺しました。また、李広の孫である李陵は戦で匈奴に降ったため、彼の家族全員が処刑されました。武将として罪のない人を殺戮した者が、善の報いを受けることは稀です。李広は家族が処刑され、自身も自殺して亡くなったのです。
(翻訳編集・海田)