【歌の手帳】早く日本へ
いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ(万葉集)
歌意「さあ、みんな。早く日本へ帰ろう。なつかしい大伴の御津の浜松も「まつ」の名前の通り、我らの帰国を、恋こがれるように待っているだろうから」。御津は、大伴氏の領地であった難波(なんば、なにわ)の港があった場所です。今日的に言うならば、彼らが乗った往きの遣唐船は大阪港から出航したことになります。
そして今、復路の船出を目前にした別れの宴席でこの一首を詠んだのは『万葉集』第三期の代表的な歌人、山上憶良(やまのうえのおくら 660~733)です。
来た以上は帰らなければなりませんが、これがまた命懸けの危険な航海です。なにしろ、当時の船には竜骨がなく、木の板を寄せて接ぎ合わせたような非常に弱い構造だったため、大波の一発も受ければ砕け散ります。船4隻で一団を組むのが通例ですが、そのうち2隻ないし3隻は沈没するか難破して漂流する、とも言われます。
いずれにせよ渡海には、相当の覚悟がなければなりません。いま別れの宴を囲む日中両国の人々は、そうした心情を共有できる人々であったはずです。そこで再び考えてみたいのですが、表題の憶良の歌は、どんな場面で、また、どのような気持ちから詠まれたものでしょうか。
山上憶良の渡唐は702年、帰朝は704年です。憶良このとき40代初めの壮年期。もちろん現代とは歳のとりかたが異なりますが、憶良は74歳まで生きますので、当時としては十分すぎるほどの長命でした。要するに、このときの憶良は、働き盛りでもあり、周囲の年少者たちにとって指導的立場にいたはずです。官位は無位でしたので、まだ正式な官吏にはなっていなかったと見られます。しかし無位でありながら遣唐使の一行に加えられるには、憶良に、人が捨てがたい長所(あえて言えば魅力)があったからではないでしょうか。
そんな憶良は、帰国を喜びながらも内心に大きな不安を抱えている訪中団の一行に向かって、一首の和歌(中国人は解せないので、その対象は日本人)による「元気づけ」を、高らかに吟じたのでしょう。
なにしろ歌の冒頭は「いざ子ども」です。「おいおい、そこで青白い顔をしている若い兄ちゃんたち。元気を出せよ。日本の故郷の浜松も、おまえさんの帰りを恋こがれて待っているぞ」。そう言った場面を想像すると、山上憶良という人間の魅力が、1300年の時を超えて爆発するように思います。
憶良が本格的に官人となったのは、日本に帰国してからの40代半ば過ぎでした。66歳からの晩年には、筑前守(ちくぜんのかみ)として北九州に赴任し、大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人(おおとものたびと)と歌を通じて親しく交流しています。
「山上憶良は百済から渡来した帰化人である」という説もあるそうです。あるいは、そうかもしれません。そういう想像も全てふくめて、今でいう県知事クラスの地方長官でありながら、生活苦にあえぐ名もない庶民を抱きしめるように心を傾けた歌(例えば「貧窮問答歌」など)を遺した山上憶良を、私は大好きであり、本当に会ってみたいと思っています。憶良に代わって、一首献上します。
千万(ちよろず)の波を越え来し若き日を思へば今も夢に揺れつつ
(敏)
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