死んだ魚でさえ生き返るのに なぜ神仙になることは難しいのか!?
どこの出身か分からないが、もう長いこと世の中をさすらっている石旻という者がいた。彼は不可思議で、思いも付かぬような道術を使った。
唐の長慶年間、石旻は宛陵郡(現在の安徽省東南部)に寄寓していた。この街に、かつて下位将校をしていた雷生という男がいた。ある日、雷生は友人たちと郡の南部にある別荘で宴会を開き、石旻も同席した。雷家の使用人が網で数尺もある魚を捕まえ、別荘に届けた。この日、雷生と客人たちはみな大いに酔った。客人たちが帰った後も、石旻だけは雷家の別荘に留まっていた。
季節は酷暑の真夏、次の日にはその魚は腐って食べられなくなった。使用人が魚を捨てようとすると、石旻が言った。「この魚は腐ってはいるが、私が良い薬を持っているから生き返らせることができる。捨てることはない。」
雷生は笑って「先生はまたおかしな事をおっしゃる!いくら良薬があるからといって、死んだ魚を生き返らせることなどできましょうか?」と言った。すると石旻は「では、どのように生き返らせるか、とくとご覧あれ!」
石旻は衣の中から小さな袋を取り出した。袋の中には丸薬がいくつか入っており、彼は薬を腐った魚の上に落とした。一時間ほどもすると、魚は最初のような新鮮な状態に戻り、まもなくぴちぴちと跳ね始め、その様子はまるで奔流の中を泳いでいるかのようであった。雷生は驚き、石旻を伏し拝みながら言った。「先生の道術は本当に神の業です!我々は俗界にあって耳も聞こえず、目も見えないのと同じ。先生の気高い言行を仰ぎ見るばかりです。我々が井戸の中の鮒なら、先生は雲の中を飛ぶ鳥。どうして肩を並べられましょうか?」
雷生には長年の持病があり、石旻に病の痛みを和らげるため丹藥をくれるよう乞うた。石旻はこれには応えずに言った。「私の丹薬は極めて清らかなものだ。あなたは世俗の人であり、節制を知らず道楽にふけっている。体内の臓腑には汚れが溜まっている。もし私の丹藥を手に入れて飲んだとしても、体内の汚れと薬の力が、まるで水と火のように戦うであろう。そうなれば命さえ危うくなるから、絶対に私の薬を飲んではならない。」
石旻はまたしみじみとこう言った。「神仙になることは難しくはない。ただ人間が檻の中の猿、かごの中の鳥のように俗世にとらわれているだけだ。いたずらに飛び立ちたいという気持ちだけがあったからといって、どうして神仙になれようか?」
出典『太平廣記』
-正見ネットより転載(【元タイトル】神仙の物語:なぜ神仙になることは難しいか、それはただ俗世にとらわれているからである)