【漢詩の楽しみ】臨洞庭(洞庭に臨む)

八月湖水平

涵虚混太清

氣蒸雲夢澤

波撼岳陽城

欲濟無舟楫

端居恥聖明

坐觀垂釣者

徒有羨魚情

 八月湖水(こすい)平らかなり。虚(きょ)を涵(ひた)して太清(たいせい)に混(こん)ず。気は蒸す雲夢(うんぼう)の澤(たく)。波は撼(ゆる)がす岳陽城(がくようじょう)。済(わた)らんと欲すれども舟楫(しゅうしゅう)無し。端居(たんきょ)聖明(せいめい)に恥ず。坐して釣(ちょう)を垂(た)るる者を観(み)ては、徒(いたずら)に魚を羨(うらや)む情有り。

 詩に云う。陰暦8月、満々と水をたたえた洞庭湖が平らかに広がっている。湖水は、まるで大空をひたし、天のなかで最も高いとされる太清天までとどいて、水と天が混じり合っているようだ。水面から昇る霧は、雲沢や夢沢という湿原に立ち込め、岸に寄せる波は岳陽の町をゆり動かさんばかりである。この大きな湖を渡りたいと思うのだが、私には舟もなく、漕ぐ櫂(かい)もない。とは言え、こうして閑居していては、聖明なる天子の恩徳に対して、恥じ入るばかりだ。何もできぬまま、遠くで釣り糸を垂れている漁夫を見ると、むやみに魚を得たい気持ちが湧いてくる。

 作者は孟浩然(もうこうねん 689~740)。李白、杜甫につづいて盛唐を代表する詩人の一人に数えられる。この孟浩然に対して、13歳下の李白がいたく敬慕して、友情以上の親交を結んでいたことは周知の通りである。

 本稿が主題とする「漢詩の楽しみ」とは、秀逸な個々の作品を紹介するばかりではない。日本人には想像もつかない広大さをもつ中国大陸において、人と人が出会って友情を結び、また惜別の詩歌を交わしながら風景のなかに消えていく物語に、宇宙の星を見るような感慨をもつのである。それは日本文学にはおよそ稀有な感覚だが、幸いなことに日本人は古来より、外国文学である漢詩を(可能な限りではあるが)共感的に楽しむことができた。漢字とは、つくづく有難いものだと思う。

 孟浩然に話をもどす。彼は官吏登用試験である科挙に(受験はしたが)合格することはなく、生涯にわたり漂泊の身であった。この点は李白も杜甫も似たようなものであり、彼らは、詩人としての名声から有力者のもとで短期に庇護されたことはあっても、官人として安定した日々を過ごしたことはない。一方、科挙の合格組は、王維張説張九齢、王昌齢、韓愈、柳宗元、白居易と枚挙に暇がないが、個人差はあるものの、いずれも立身出世して高官となっている。

 興味深いのは、無位無官で経済的にも困窮していたはずの孟浩然が、その詩才ゆえに、王維(おうい)や張九齢(ちょうきゅうれい)といった出世組に招かれて親しく交際していることである。唐という時代は、もちろん官吏になるには科挙に合格することが求められたが、身分上下の隔ては、後世のそれに比べれば大らかなものだったらしい。

 時代が下って宋、明、清の各代では、受験者が発狂するほどの試験地獄となる。つまり科挙というペーパーテストの、それぞれの段階に勝ち上がっていくことが唯一絶対の価値観となり、一族をあげての大目標になった。そうした時代には、もはや詩人の自由な漂泊はなく、身分を隔てての友情など入り込む余地もなくなっていた。漢詩は唐をもって最盛期とされるが、その理由の一つが、この辺りにもあると言えよう。

 前置きが長くなったが、実は表題の詩「臨洞庭」は、丞相(じょうしょう)であった張九齢に孟浩然が贈った一首なのである。張説(ちょうえつ)への贈答詩であったという別説もあるが、どちらへ贈ったかは、まだ研究者の間でも結論を見ない。張九齢と張説、時代は異なるが、いずれも玄宗皇帝へ諫言できるほど高位の大臣であった。

 それを贈った孟浩然の「魚を得たい気持ちが湧いてくる」という詩の根底には、「私も官職を得たいので、どうかお願いします」という作者の本音が見え隠れするのだ。

 それにしても、こんな詩があるのかと、素朴な驚きを覚えてしまう。今の日本に例えて言えば、「お役所の仕事をひとつ、私に口利きしてもらえませんか。ねえ、安倍さん」ということになる。あり得ないことだが、詩を読解すると、そのような意味になってしまうのだから仕方がない。宇宙の星の動きには、まったく理解を超えたものがある。

(聡)