中国伝統文化と日本(七) 芭蕉と漢詩

「弥生も末の七日、あけぼのの空朧朧として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野谷中の花の梢、またいつかはと心細し。むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の涙をそそぐ」

元禄2年(1689)旧暦3月27日の明け方。松尾芭蕉おくの細道』の旅立ちの場面である。

芭蕉と門人の曾良(そら)はこの日、江戸深川の芭蕉庵を出立する。
ただし、この時点では、まだ前夜から集っていた親しい友人らも一緒にいて、この先の千住までは見送りのため同じ船に乗って行く。

千住で船を下り(船から岸に上がり)、見送りの友人らと別れてからが、いよいよ「前途三千里」の東北旅行となる。

私たち日本人にとって、芭蕉の『おくの細道』といえば、自家の祖先の遺稿を読むような親しみとともに、「できることなら、いつか自分も歩いてみたい」という長旅への憧れをかきたてて止まない珠玉の古典であろう。

私たち日本人にとって、芭蕉の『おくの細道』といえば、自家の祖先の遺稿を読むような親しみとともに、「できることなら、いつか自分も歩いてみたい」という長旅への憧れをかきたてて止まない珠玉の古典であろう(ゆうた1127 / PIXTA)

 

俳聖・芭蕉は、今日でいう職業作家である。
『おくの細道』も個人的な旅日誌ではもちろんなく、後日に出版することを前提に書かれた、言わば「芭蕉の作品」である。しかも、同時代の読者(および後世の日本人)がそれを受容し、知的満足感が得られるよう、各処に芭蕉ならではの「仕掛け」が埋設してある。

当時は江戸と言い、今は東京と言うが、この地に長く住んでいる人間であれば「千住」の地名と場所を知らぬはずがない。それをわざわざ「千住といふ所にて」と、やや距離感のある表現をしているのは、なぜであろうか。

一つの想像だが、木版で印刷出版された『おくの細道』が江戸以外の場所、例えば大阪や京都などで販売され、上方の読者にも愛読されるとともに、東国への旅情をかきたてることを芭蕉は願い、想定したからではなかろうか。

さらに芭蕉が、読者の教養レベルを高めに設定し、それに合わせて書いている点にも注目される。この時代における知識人の教養は、和歌や有職故実の場合もあるにはあるが、それ以上の知識は漢籍の読書量に頼っていた。

いずれにしても、日本人にとって外国語である漢文や漢詩が、科挙のための試験勉強ではなく、必修すべき教養であった歴史を、令和の日本人である私たちは喜びとして良い。

とくに江戸の中期以降は、「元禄文化」とも言われたように、町人中心の文化が花開いたことで知られている。

そうした背景もあって、初学的な読み書きだけでなく、経済的に余裕のある町人は漢籍を勉強するようになった。俳諧趣味の隆盛も、町人の知的レベルが上がったことと無関係ではない。

有名な『おくの細道』の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」には、李白の文章の語句「光陰者百代之過客」がそのまま使われている。繰り返すが、当時の読者にもそれを感知できる漢文の知識があったのである。(fomalhaut / PIXTA)

話を『おくの細道』へ戻す。
先に引用した「幻の巷に離別の涙をそそぐ」のところで、漢詩に覚えのある読者ならば、杜甫の名詩『春望』の一節「感時花濺涙(時に感じては花にも涙をそそぎ)」を連想することだろう。

それを想定して、涙を流すではなく「涙をそそぐ」としたところも、芭蕉の配置した「仕掛け」だったと見て良いのではないか。作者と読者双方による高度な教養のキャッチボールは、静寂のなかにも実に楽しい一時となる。

のちに芭蕉が平泉の古戦場に至り「夏草や兵どもが夢の跡」の名句を詠んだとき、「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と記している。

周知のように、杜甫の『春望』は「城春草木深(城春にして草木深し)」である。もちろん芭蕉は、ここを誤って引用したのでなく、効果をねらって意図的にくずしのだろう。読者も当然それを分かっている。

よく知られているように、有名な『おくの細道』の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」には、李白の文章の語句「光陰者百代之過客」がそのまま使われている。繰り返すが、当時の読者にもそれを感知できる漢文の知識があったのである。

元禄2年の旧暦3月27日は、新暦で言えば5月16日に当たる。上野や谷中の桜は、この旅立ちの日にはもう咲いていない。

よく知られているように、有名な『おくの細道』の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」には、李白の文章の語句「光陰者百代之過客」がそのまま使われている。繰り返すが、当時の読者にもそれを感知できる漢文の知識があったのである(まっちぃ / PIXTA)

芭蕉は、ここに見えざる桜を見ることで、先人のように旅先で死ぬかも知れない自身の不安を「心細し」と吐露しながら、それでも「前途三千里」の旅への憧れを捨てない主人公を演じている。

芭蕉の今回の旅は、全行程が約600里(2400㌔)である。
それを「三千里」とは少々オーバーであるが、ここで当時の読者は李白の詩句「白髪三千丈」を連想しているので、芭蕉に物言いの手紙を送ることはない。

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。