口は善悪の門
今から700年以上前の中国元朝の時代、趙良弼(ジャオリャンビ)という大臣がいました。彼の美徳と事績は、国が編纂する正史にも記録されています。
趙良弼は渾都海(フンドウハイ)が反乱を起こした時、役人の汪惟正(ワンウェイジャン)、劉黒馬(リウヘイマ)と3人で相談し、直ちに渾都海の部下2人を処刑しました。
しかし彼の上司だった廉希憲(リェンシーシェン)と商挺(シャンティン)は、趙良弼は無断で処刑を行ったしたとして、皇帝の逆鱗に触れるのを恐れ、使者を派遣して皇帝に謝罪しました。
その様子を見た趙良弼は、使者が出発する前、密書を使者に渡し「もし本当に皇帝陛下がお怒りになられたら紙を陛下に呈してください」と頼みました。手紙は「罪は私にあり部下2人にはありません」とつづられていました。結局、元の皇帝はこのことを追及しませんでした。
またこのようなこともありました。ある時、廉希憲と商挺に個人的な恨みを抱いていた費寅(フェイイン)が、2人は謀反を企んでいるとして告発しました。そして趙良弼がこの謀反の企てを知り、証言すると言いました。
皇帝は趙良弼を呼んで委細を聞きました。趙良弼は「廉希憲と商挺は忠臣です。彼らは決して謀反などしません。私は何としても2人の無実を証明したい」と答えました。
しかし皇帝は廉希憲と商挺のことを信じることができません。ついには皇帝は趙良弼を厳しく非難しはじめ「真実を話さなければ、舌を切ってしまうぞ」と脅しました。しかし趙良弼は身を賭けても無責任な讒言(ざんげん、嘘を言い責任から逃れる)をしませんでした。
そんな趙良弼の毅然とした態度に心打たれ、皇帝は2人を疑うことを止めました。その後、個人的な恨みをはらそうとしていた費寅は、最後には反逆の罪で処刑されたそうです。
儒教では「君主が徳を以って人民を治め正しい方向に導いてこそ国家が安定する」と唱えています。この徳治政治は、中国から日本にも伝わり、受け入れられていました。
『元史第159巻 列伝第46』
(大道修)