元新華社香港支社長・許家屯氏の遺灰 故郷へ埋葬 生前帰郷の夢果たせず
中国語短波ラジオ放送、希望の声が報じたところによると、元新華社通信香港支社長を務めていた許家屯氏の遺灰が10月2日に中国に到着、故郷である江蘇省李堡鎮に埋葬されるという。同氏は天安門事件後米国で亡命生活を送っていたが、今年6月29日、ロサンゼルス市内で病気により死去。享年100歳。「生きているうちに故郷の土を踏みたい」という同氏の願いは、遂にかなえられることはなかった。
「六四天安門事件」では学生運動を支持
許家屯氏は、天安門事件後に国外へ脱出した中国高官の中で最も高い地位についていた。事件当時は中国共産党香港・マカオ工作委員会書記、新華社通信香港支社長を兼任しており、香港における党幹部のトップだった。その地位は、現在の中連弁(中央人民政府駐香港特別行政区連絡弁公室)主任に相当する。
1989年に民主化を望む学生運動が激化した際、許氏の考えは時の中国共産党最高指導者、趙紫陽氏の意見と一致していた。両者とも、学生運動は愛国運動であり、対話によって解決すべきだと主張しており、武力制圧には反対の立場を取っていた。そのため同氏は、中央政府の行う学生運動の弾圧に対し、北京駐香港機関が反対の意向を表明することを黙認していた。
89年5月20日に北京で厳戒令が敷かれた際、許氏は香港紙の文汇報が、「開天窓」という方法で、中国当局に対する非難を表明し、21日の紙面に、ただ「痛心疾首(深く悔やみ、悲憤する)」とだけ掲載することも黙認した。開天窓とは、当局の意に沿わない新聞記事が検閲で削られ、その部分が空白のままで誌面に残ること。紙面に白紙を敢えて残すことにより、事件を報じる記事が当局の検閲により削除されたことを言外に示していた。同氏は回想録の中で、当時新華社オフィスの階下には中国当局へ請願するために香港人が集まっており、デモ隊が大声でスローガンを叫んでいたのを耳にして、感動のあまりむせび泣いたと記されている。
89年6月4日、北京当局は学生運動を武力により鎮圧し、いわゆる「六四天安門事件」が起きたが、この時許氏は新華社の名前で「沈痛的呼吁(深い悲しみを込めた呼びかけ)」という声明を発表した。この声明には「我々は首都で発生した血みどろの弾圧、愛国者である学生や人民を殺害した暴力行為に対し、極めて憤慨している!我々は愛国者である同胞の死に対し、6月5日にあらゆる形で哀悼の意を表することを呼びかける」と記されていた。
天安門事件後、中国当局は学生運動を支持した人物を次々と処分していった。90年初頭、許氏もまた新華社から罷免され、4月末には、天安門事件後に政権を握った江沢民が同氏を粛正するつもりだと聞き及んだため、米国へ脱出した。91年、許氏は党籍をはく奪され、人大常委会の委員も解任された。
かつて許氏は、「もしあの時出国しなかったら、江沢民や李鵬によって拘束され、取り調べ受けることになっただろう。そして趙紫陽氏と同じように死ぬまで軟禁生活を強いられていたはずだ。いや、趙氏よりもっとひどい目に遭っていたはずだ!」と亡命の理由を語っている。
26年の亡命生活 帰郷の願いかなわず
許氏はその後、20年以上に渡り亡命生活を送ることになったが、その間、帰郷への思いを常に抱いていたという。
胡錦濤政権の時、許家屯氏は人を介して「老い先短い自分は、もう一度故郷の土を踏みたい」と帰郷の希望を伝えたが、胡氏から個人的には問題ないが、まだ「機が熟していない」との返答があった。
04年、許氏の妻が南京で死去した時にも、許氏の娘が当局に対し、同氏の帰国を願い出たが、「当面は見合わせる」との返答が来たにとどまった。
こうして同氏の願いが中国当局から聞き届けられることはなかったが、昨年3月、カリフォルニアで99歳の誕生日を迎えた時にも、生きているうちに中国に帰るのだという希望を捨ててはいなかったという。
そして今年5月、許氏は再度北京の指導者層と交渉したが、結局は同氏の死後、その遺灰を中国に埋葬することが許されただけだった。
許氏は習政権が「より巨大な大トラ」を退治することを支持
許氏は15年初頭に海外の中国語メディア明鏡網から取材を受けた際に、「十八大」(中国共産党第十八回全国代表大会)前に、中国国内で内乱が起こることを心配していたが、習近平政権になってから、中国情勢にかなり楽観的になってきたと述べた。
許氏は、江沢民時代には、私利私欲に溺れる者の天下になり、国家も社会も上から下まで、「トラ(大物の腐敗高官)」や「ハエ(小物の汚職役人)」が至る所に現れていたと語っている。
また許氏は、習政権の断固たる姿勢を支持していることを表明した。「十八大」以降、習政権が「トラ」も「ハエ」も一緒に退治する政策を取り、官位に関係なく腐敗を一掃した結果、薄熙来、周永康、徐才厚、谷俊山といった大物高官が次々と失脚し、党籍をはく奪され、法の下で裁かれることとなった。習政権が今、更なる「大トラ狩り」の真っただ中にいるとの見方をしていた許氏は、習政権が「より巨大な大トラ」を倒した時に、帰国の夢がかなうと信じていた。
許氏がこの話をしたとき、徐才厚や周永康らは既に失脚していたため、同氏の言う「より巨大な大トラ」とは、江沢民を指していたと考えられている。
(翻訳編集・島津彰浩)