習主席を陰から支え続けた太子党大物が死去
7月10日午前1時、中国共産党元老の葉剣英の次男で葉選寧氏が広州で死去した。79歳だった。一般には名は知られていないものの、政治や経済界に太いパイプがあり、文芸においても才能をあらわした。習一族とは2代にわたり交友関係にあり、反腐敗運動の局面において、習近平氏を支えた。
葉氏は1938年9月に香港で生まれ。父親の葉剣英氏は中国共産党元帥で、中国共産党人民解放軍の創立者の1人。母親の曽憲植氏は清代末期の政治家・曽国藩の血を引く。容姿も教養も優れた女性だったという。
同氏がいかに努力家だったかを示すエピソードがある。母親側の曽一族は老若男女を問わず書写に通じていたことで知られていた。葉選寧もまた3歳から書に親しみ、書家としても、31歳の時に機械に右腕を切断されるという不幸な事件に見舞われてしまった。右腕で筆を持つことが叶わなくなった同氏は、その後筆を左に持ち替えて一から書の練習を始め、数十年の地道の努力でまた立派な書家として名を挙げ、書写個展も開くようになったという。
1988年9月、軍の階級制度が復活して初めての階級授与の際、同氏は少将に任命された。1990年からは軍総政治部連絡部部長に任命され、1993年から中国凱利実業有限会社の社長・会長にも兼任、97年に退役した。
総政連絡部は中国共産党の「特務」諜報機関であり、葉氏は表では凱利実業の社長だとしているが、実は中国共産党三大諜報機関の1つの「お頭」である。
葉氏は独自の人脈関係を通じて、短期間に凱利実業の知名度を上げ、多大な利益を得た。その利益の大半を総政連絡部の情報収集の資金として投じた。一時総政治部の情報収集力が総参謀部を凌駕したほどであった。
一般には知名度の低い「大物を動かせる人物」
事情通は、同氏のことを「大物を動かせる謎めいた非常に頭の切れる人物だった」と称している。卓越した才能で、軍上層部やビジネス界において目覚ましく活躍し、人間関係においても幅広いネットワークを築いた。太子党の中でリーダー格とみなされているという。一方、市民はこのことをほとんど知らない。
2012年11月の中国共産党第十八回全国代表大会(以下、十八大)前、失脚した元最高指導部メンバーの周永康らによる政変計画が暴かれた「重慶事件」が起きた際、江沢民一派が習近平氏を失脚させ、その後釜に同じ太子党の薄熙来を据えようと画策していたことが明らかになった。中国の政治の中枢部、中南海での権力闘争が公になり、政局が混乱におちいる中、葉氏は公然と習氏を支えた。
香港メディアは以前に、葉選寧氏が総政治部で連絡部長を務めていた時に、太子党メンバーから約3000人の海外留学者を出したことを報じている。同氏は自分の息のかかった3000人の部下全員を習主席に譲り渡した。それ以来、彼らは習氏の指揮下に置かれている。
2014年に香港で出版された宋智寧著『総参少壮派兵変』によると、葉選寧氏は上海出身の中共総書記の江沢民のことを「凡庸な人物で、軍と何のつながりもなく、軍を指揮する資格はない」と酷評した。葉氏と一部の太子党メンバーにとって、江沢民に追従することは、自分自身の地位を貶め、家名に泥を塗るようなことだった。
習一族とは2代にわたり親交
報道によると葉一族には、習仲勲氏(習近平氏の父)の代から2代にわたって習一族と親交を深めてきたという歴史的な背景がある。実際に、習主席が反腐敗運動の推進にあたり幾度も重要な「大トラ狩り」の局面において、葉一族は習陣営を全力で支えてきた。また習氏の反腐敗運動を支持することを全面的に訴えることによっても、江一派に大きな打撃を与えていた。
十八大の後、共産党の党首に選ばれた習氏が、反腐敗運動を背景に周永康、徐才厚といった江一派の「大トラ」狩りを進めるにあたり、「紅二代(功績ある老幹部の二代目)」が大きな役割を担ってきた。習氏の政敵・江沢民がこの20年間で行った悪政が、党の内部秩序を混乱させ、中国の環境破壊をもたらし、人々の道徳観念を崩壊させたこともまた、衆目の一致するところだ。
香港メディアが以前に報じたところによると、太子党と紅二代との間では、習氏が江沢民を制することを支持するという基本的な共通認識がすでに取り交わされているという。
(翻訳編集・島津彰浩)