中国高速鉄道、急ブレーキ 「奇跡」の誕生と終焉
【大紀元日本8月22日】40人の死者を出した7.23温州高速鉄道追突事故から明日で1か月。最高の速度で作り出された「人間の奇跡」(王勇平元報道官)の終焉もまた速かった。16日には、誇りだった時速が全面的に減速され、最高時速350キロの高速鉄道は300キロに、250キロの高速鉄道は200キロに、200キロの在来線は160キロにそれぞれ引き下げられた。また、北京ー上海線で開業以来故障が相次いだ「CRH380B」型車両はリコールされ、運行本数は従来の88往復から66往復に削減された。さらに、中国内外への高速鉄道の宣伝に精を出していた王勇平・元鉄道部報道官もこのほどポーランドに職場が異動し、高速鉄道に急ブレーキが掛けられた様相がいっそう鮮明となった。
こうした中、中国国内情報サイト「財新ネット」は15日、高速鉄道建設の裏を明らかにする記事を掲載した。
日本の忠告を無視していた
2004年、中国政府は外国から高速鉄道の技術を招致することを決定した。当時、中国の列車運行の最高時速は160キロだった。財新ネットの記事によると、当時、川崎重工業の大橋忠晴・社長は中国側に対して、無理に早く進むのは禁物であると進言し、まず8年間で時速200キロの技術を掌握してから、さらに8年間で時速350キロの技術を開発する、と提案した。
しかし、「画期的発展」を目指す中国鉄道部の元トップ劉志軍・部長は、この言葉に耳を傾けなかった。7年後、大規模な技術招致、吸収、消化を経て、中国は最高時速を380キロに引き上げ、しかも、北京と上海を結ぶ高速鉄道で実践しようとした。
このニュースは一時世界を驚かせた。日本は30年間を費やしてやっと列車の時速を210キロから300キロに引き上げたのに対し、中国は7年間で160キロから380キロ。もし、7.23高速鉄道重大事故がなければ、中国はこの分野の世界記録を刷新できたかもしれない。
しかし、無謀な世界記録は実現しなかった。北京と上海を結ぶ「京滬高速鉄道」は6月末に開通してまもなく、5日間で電力供給設備の故障が4回ほど発生した。さらに7月23日に発生した追突事故で、中国高速鉄道「神話」の終焉が決定的となった。
試されていない速度
380キロの世界記録で高速鉄道が走らなかったのは、元トップの劉志軍氏が汚職問題で現職を退いたためだ。その後任である盛光祖・部長は今年2月の就任早々、北京ー上海間で設定していた350キロの時速を300キロに引き下げると公表した。国内メーカーのあるシニア・エンジニアは財新ネットの取材に対して、「それを聞いて私たち全員がほっとした」と話した。最高時速を作り出せても、コントロールすることができないという。
今年6月末には、中国鉄道部元幹部の周翊民氏はメディアの取材で、中国は、日本とドイツから導入した技術を元に独自技術で時速380キロの営業速度を実現したとしていたが、この速度は日独が試験走行で達成した速度に近い速度である。それを営業速度とすることは、実際走行時の安全考慮を無視した設定だと指摘した。
中国鉄道部は即座にこの指摘は事実無根であると反駁したが、鉄道や車両の開発にかかわった各方面の専門家3人は財新ネットの取材に対して、周翊民氏の発言は事実であると証言した。
2007年末、車両メーカーの南車集団が時速300キロ以上の走行テストを行った際に、技術を提供した外国企業の専門家は、テストへの参加を拒否した上、事故を起こした場合、いかなる責任も負わないと明言していた。
前述のシニア・エンジニアは、「鉄道部はずっと高速鉄道は安全に問題がないとしている。一方、我々が招致した外国の技術は最高時速300キロの車両である。ところが、わずか数年間で350キロまで引き上げた。もっと率直に言うと、ただ、『勝手』にパワーを増大して速度をアップしただけ。一部の技術について、いまだに我々は理解・把握していないのだ」と話した。
巨大市場を用いて技術をゲット
「画期的発展」は劉志軍・元鉄道部トップが2003年就任当初に掲げた目標である。その任期中に中国鉄道発展の中心戦略ともなった。
劉志軍氏の次の目標は「(巨大)市場で技術交換」である。つまり、外国の高速鉄道の先端技術を招致し、それまで10年余り続けてきた国内の技術開発を中止させた。
彼の狙いは明確だった。中国の高速鉄道建設という魅力満点な市場を餌に、外国企業に重要な技術を提供してもらうことだ。低コストで最先端の技術を得て、それを消化・吸収して、最終的に中国製造という「画期的発展」を成し遂げる。
彼の主導の下、中国鉄道部は2004年から2006年までの3年間に、3つの重要プロジェクトの入札を行った。
2004年8月27日には、フランスのアルストム社、日本の川崎重工業、カナダのボンバルディア社がそれぞれ中国企業と連携して、「時速200キロ車両」の製造を落札した。
2006年年初には、上記三社とドイツのシーメンス社もそれぞれ中国企業と連携して、「時速300キロ車両」を落札した。
最も注目すべきなのは、2006年11月から始まった、国内初の北京―天津間を結ぶ高速鉄道の建設プロジェクトの入札だった。日本は当時、日立を中心に川崎重工業、三菱など6社の企業連合が入札に臨んだ。
この入札で鉄道部の技術交渉の顧問を務めた北京交通大学電気工程学院電力学部の呉俊勇・主任は、中国高速鉄道の問題が多発する今でも、財新ネットの取材に対して、当時、交渉の陣頭指揮を取った劉志軍氏の「敏腕ぶり」を賞賛した。
「交渉において、鉄道部は終始主導権を握っていた。我々が譲歩しなければ、相手の外国企業はまったくなす術がない。我々には4つの選択肢があるので、最大限に4つの外国企業連合に競争させた」
交渉は2006年11月に始まり、3か月間続いた。呉俊勇・主任は当時をこう振り返った。「外国側は皆異なる案を提示してきた。我々にも自分のリストがある。一つ一つの技術について、どちらが提供できるのかできないのか、相手の4社と個別に交渉した。現場は相当激しかった。テーブルを叩いたりイスを蹴飛ばしたりするのは日常的だった」
「鉄道部の方針は非常に明確だった。つまり最先端の技術を安く引き出すことなのだ」と呉俊勇・主任は話した。
最終的にはシーメンス社を中心とするドイツの企業連合が120億元(1元約12円)で同プロジェクトを落札した。
中国政府が追求する国産化率
中国の自動車産業が1980年代にドイツのサンタナ車の技術を導入したのと同様に、鉄道部は「(巨大)市場で技術交換」のやり方で高速鉄道の国産化率のアップを目指した。サンタナ車について、中国の自動車産業においては、有形部分の生産を重視し、もっと重要な技術を獲得できなかったため、失敗の事例とされている。中国鉄道部はもちろん、同じ過ちを繰り返したくなかった。
2007年4月29日、鉄道部は記者会見を開き、中国はすでに世界最先端の動力車の製造技術をマスターしたと宣言、時速200キロ以上の動力車の国産化率は70%以上に達し、「世界のトップの一員になった」と公表した。
財新ネットは複数の専門家に取材調査した結果、中国は確かに外国の技術から多くを学び、外国の技術図面に沿って車体を製造できるまでになったとの回答を得た。
しかし一方、電力技術の専門家として、前述の呉俊勇・主任は設計の原理までは学ぶことができなかったと認める。「我々が得たのは時速300キロの技術。350キロの時速を目指すならば、各システムと部品を調整しなければならない。すると、最も基本となる設計の原理を把握するのが重要不可欠だ。それが実現できなければ、些細な問題も外国側に頼るしかない」
「自主開発について、最も重要なのは、技術資料からは見えない知識の積み重ねである」と、北京大学の路風・教授は指摘した。ほかのエンジニアは、「このような最も基本的なものが実は最も肝要である。技術招致ではこれらを得ていない」と言う。「結局、我々には、塗装のデザインを変えたり、イスを変えたり、室内リフォームのようなことしかできない」
2006年には、南車集団とドイツのシーメンス社はDJ4型を合同生産した。列車のテスト運行のとき、1つの車両は動くが、もう一つの車両が動かなかった。中国側はその原因を突き止められない。結局、中国側の関係者全員を現場から撤退させて、ドイツ側の技術者が検査することになった。「一週間後、ドイツ側が完成させた。私たちは何がなんだかわからないまま、テスト運行を行った。まあ、結果として2つの車両とも動けるようになった」
前述のシニア・エンジニアは中国の高速鉄道建設の現状について、次のように総括した。「(鉄道部が掲げている)技術の招致⇒消化⇒吸収⇒再開発は基本的に問題はない。しかし、着実に消化と吸収ができなければ、再開発の成功はありえない。特に高速鉄道は高度な技術が必要で、国民の生命、財産の安全に関わる戦略的なプロジェクトである。無謀な再開発は非常に危険だ」
中国鉄道部もこの利害関係を知らないはずがない。しかし、次から次へ速度アップするという欲望は抑制できなくなっていた。2008年2月26日、鉄道部と科学技術部は「中国高速列車自主創新聨合行動計画」を制定し、さらに高い目標を立てた。つまり、日本、ドイツ、フランスを超えて時速380キロの次世代高速列車を開発する。多くの業界の専門家は、「これは完全に科学研究のルールに違反する行動計画である」と批判し、外国の技術を鵜呑みにしただけで、肝心の基本的な原理を把握できていないと懸念を示した。
2009年9月8日、鉄道部の元副総技術師の張曙光氏は、この奇跡的な目標が実現したと宣告し、「我々は6年間で、高速鉄道の9つの主要技術を完全に把握できた(中略)、全面的な自主開発が成功した」と豪語した。
しかし、止まる所を知らない中国高速鉄道の野望は頓挫した。7月13日、上海から北京に向かうG114次列車は途中駅で動かなくなった。これはこの路線での連続三日目の故障だった。中国政府は雷による電力供給の故障と公表したが、内部関係者が財新ネットの記者に寄せた情報では、「CRH380B型車両の一部の速度測定装置が故障したが、列車の自動操縦システムが故障したそれらの装置を識別できなかったからだ」という。
8月9日、鉄道部は通達を出して、中国北車集団が製造したCRH380B型高速列車の出荷停止を決めた。その2日後、この型番の列車を全部リコールすると発表した。
日本のアトランティス・インベストメント社のエドウィン・マーナー研究責任者は、7.23鉄道事故により、「中国が高速鉄道を輸出する機会はゼロになった。中国鉄道関係者は少なくとも20年間をかけて安全性を証明しなければ、国外の顧客を説得できないだろう」と述べた。