≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(69)
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす
「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する
1954年、寧安一中がちょうど建設されました。元々あった寧安八中が、第一中学と第二中学とに分けられたのでした。第一中学は、寧安の北側の駅近くに建てられました。戦前は日本軍の兵舎であった跡地だそうです。第二中学は、元通り牡丹江河畔に面した校舎でした。
第一中学には、高等部と中等部がありました。学校の建物は、灰色で二階建てでした。裏庭に平屋が一棟あって、学生食堂でした。私が学校に到着したその日、建物の中の廊下はコンクリートがまだ乾いておらず、入ることができませんでした。そこで、職員室のある東側の平屋で到着の手続きをだけ済ませました。
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合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。
中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。
この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の意味が何なのかを理解することができませんでした。
私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。
二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。
中学で弟と再開 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くです。
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。
孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。