≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(67)
しばし謝家に身を寄せ、中学に合格
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心身は、やっと少し休ませることができました。それ以降、私は放課後は、畑の仕事と家事に忙しい日々を過ごしました。そんな時、謝おばあさんが私を義理の娘にしました。そこで、その口の不自由な息子が私の兄になり、謝おばあさんの娘を、私はお姉さんと呼ぶようになりました。
しばらくの間、私は鐘玉恵さんの家にも手伝いに行きました。钟玉惠さんの家は店を開いており、ちょうど私に手伝ってもらいたかったのです。当時、店には年少の店員が働いていたのですが、忙しくて手が回らない状態でした。
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趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。
中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。
この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の意味が何なのかを理解することができませんでした。
私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。
二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。
中学で弟と再開 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くです。