≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(57)
【大紀元日本1月23日】時間が経つにつれて、私は謝おばあさんが李素珍おばさんに大変厳しい目を向けているのに気が付きました。李素珍おばさんには懇意にしている人がいて、呉亜洲といいました。遼寧省・奉天の人で、口が達者でした。年はおばさんよりかなり上でしたが、若く見えました。私たちは呉おじさんと呼んでいました。
呉おじさんの家は子供が多く、生活が大変で、よく謝家に食料を借りに来ていました。私は時々、李おばさんがこっそり呉おじさんに食料を分け与えているのを見かけました。
ある日の晩、呉おじさんと李おばさんが倉庫にいるところを、李おばさんの夫で口のきけないおじさんに見られました。おじさんは怒って「あーあー」としきりに叫び、両手で手まねをすると、オンドルに上がって眠ってしまいました。謝おばあさんは、李おばさんをおじさんが眠っているオンドルの下に跪かせ、おじさんが目を覚ますまで許しませんでした。
関連記事
【大紀元日本1月7日】 奇縁により謝家に身を寄せて 1951年の春、養母は閻家後屯に新しく作られた村に引っ越す準備にとりかかり、私は向かいの謝家にあずけられました。私が謝家に住まうことができたのは、
【大紀元日本2月1日】その頃、私は早朝と放課後にできるだけ家の仕事を手伝っており、李素珍おばさんはそんな私に大変満足していました。彼女はよく、仕事をしながら謝家のことや彼女自身の秘密をいろいろと話し
災難がついに到来 秋になると、養母は人に手紙を託して、私に一度帰るように促しました。我が家が新しい村に移ってから、私は一度もまだ帰っていませんでした。
私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。