【新連載:乾坤に生きる】太平天国の夢やぶれて①
【大紀元日本10月6日】宇宙という存在は、複合的なものであるらしい。
頭上に広がる大空間が宇宙であるならば、人間の体内にも、また一輪の野花のなかにも宇宙は存在する。大小いずれの方向に向けても、その空間は無限である。
特殊な空間、というだけでは少しの説明にもなるまいが、宇宙、つまりその特殊な空間のなかには、流動的な、ある種のエネルギーがあるとされる。
形而上の思考を好む東洋人は、古来よりこれを「氣」と呼んできた。天地間におこる自然現象も「氣」であれば、人間の精神もまた「氣」である。
そのなかに生き、また、生かされる万物。生生流転。
ときには、世の中の「氣」が大きく変化して、歴史をつくることがある。
清朝末期の中国にもまた「氣」の大変動があった。1851年から64年まで、「太平天国の乱」とよばれる乾坤をゆるがす大乱がおこる。
その首領・洪秀全(1814~64)は、広東省花県の中農の出身である。
彼の家系は客家(はっか)(10世紀前後に北方から移住してきた漢人)であったという。豊かではない環境であったが、村塾の教師などをしながら学業を積み、官吏としての立身を目指していた。
しかし、数度におよぶ応試にも及第せず、ついに高熱を発して倒れた。その病床に見た夢のなかで、自分が天父エホバの第二子、天兄イエスの弟であり、地上の妖魔を掃討して太平の世界を創出する使命をもって生まれた者である、という神の啓示を受けたという。
1843年、彼が旗揚げした新興の宗教集団・拝上帝会は、唯一神エホバを崇拝しながら進み、いたるところで神仏の像や寺廟を破壊し、孔子像を粉砕した。満州族の習俗である辮髪を切って長髪とし、反清の態度をあからさまにする賊徒の出現は、清朝政府にとって驚天動地の大事件であった。
当時、アヘン戦争での惨敗以来、莫大な対外賠償にあえぐ清朝は、国民に一層の重税を課したため農民反乱が各地で相次ぎ、さらに国土や数々の利権を西欧諸国に切り取られて、その威信を地に落としていた。
国情が不安定になって大量の流民が発生することは、中国史においては通常のことである。洪秀全率いる拝上帝会は、それらの流民を吸収して膨張し、いつしか軍団となった。
参集してきた流民たちにしてみれば、救民の教義などよりも、ともかく「飯が食える」ことが欲するすべてである。ところが、この科挙くずれの宗教指導者は、どこからその発想を得たのか、これまでの流民の頭目とは全く違った采配をした。
50年夏、命令に応じて桂平県金田村に集結した会員は1万余人。
その家族を解体し、さらに男女を分離して男営・女営という兵営に編成するとともに、財産の私有を禁じてすべて「聖庫」に納入させた。一種の戦時共産主義ともいえる厳格な体制であったが、指導者に感化された人々の信仰心の熱さがそれに耐えさせた。
翌51年1月、洪秀全は清朝に対して本格的に叛旗を翻し、金田村を出発する。
(続)