中国の公開裁判
【大紀元日本8月18日】大紀元時報の連載社説『九評共産党』第七評「中国共産党の殺人の歴史」に、中国共産党(中共)が民衆を恐喝するために、村民と子供、先生を集めて、でっち上げの罪名で人の首を切り落とす場面が書かれている。「首切り人は、身体が丈夫で力が非常に強い凶悪な共産党青年兵だ。彼は一人目の犠牲者の背後に立ち、両手で幅の広い鋭い刀を持ち上げ、目にもとまらぬ速さで、スパッと切り落とした。首は地面に音を立てて落ち、鮮血がほとばしった。子供たちの歌声はヒステリックになり、乱れた泣き声となった。教員らは拍子整えようとしたが、混乱の中で鐘が鳴った」。これはもともと雷震遠神父が書いた本『内部の敵』から引っ張ってきたものだが、まるで大昔のことのように聞こえる。
実は、「文化大革命」時、公開裁判はごく普通のことだった。いわゆる「罪人」をトラックに乗せて、あちこちの村ごとに運びながら、村民達を集めて公開裁判したが、これを見ない人は「政治問題」とされ「罪人」になってしまう恐れがあった。
「これはもう昔のことで、あの時代の人々は野蛮だったが、現在の中国は『改革開放』が実施され、外国から文明を学んできたので、このようなことはもうないだろう」と言う人が少なくない。しかし、私がここで言いたいのは、中国で改革開放後に行われた「公開裁判」のことである。
1980年春、私が高校一年生の時のことである。ある日、第二中学校の運動場で公開裁判が行われるので、各中学校(中国の中学校は、日本の中学と高校の一貫で六年制)から二つのクラスを派遣して参加させるという知らせが来た。わたしのクラスが選ばれたので、わたしも参加することになった。
公開裁判は午前中に行われ、2時間の内に20数人が裁判された。裁判とは言っても、実は前もって裁判した結果を、ただ読み上げるだけだった。罪人達はトラックに乗せられ、両手は後ろから縛られ、胸の前には白紙に黒字で名前と罪名が書かれている看板が首にぶら下げられていた。裁判される罪人は、左右両側に警察に引っ張り挙げられて、順番に前に立てられた。彼らは頭を上げることは禁止された。罪人は泥棒から、政治犯、殺人犯までいろいろあり、裁判結果はその場で釈放される者から、有期懲役、無期懲役、死刑まであった。
死刑は男一人だった。男は外地から来た人で、電気修理屋を装って、主婦一人しかいない家に泥棒に入り、主婦をドライバで殺してものを盗んで逃走したが、逮捕された。公開裁判だから、死刑は直ちに執行された。裁判長は刑場の位置を伝え、その場にいた人たちに見に行くよう要求した。
刑場は郊外の川岸の砂浜だったが、公開裁判会場の第二中学校から数キロ離れたところにあった。狭い道で、数百人が罪人を乗せたトラックの前後で走った。まるでテレビで見たスペインの狭い道で人が牛の前後を走りながら闘牛する様子だった。刑場は半径30メートルぐらいの円形だったが、誰も入らないように多くの警察官が配置されていた。人が多くて外囲に立っていると見えないので、私は樹の上に上って見た。罪人は既に怖くて胆がつぶされてしまい、一人で立つことも、跪くこともできなかった。警察官二人が両側から肩を持ち上げて跪かせ、マスクをかぶった軍人が罪人の背後1メートルぐらいのところから自動小銃で心臓部位を撃った。一発の銃声が鳴ると、罪人はすぐ倒れてしまい、心臓のリズムに合わせて胸から鮮血が湧き出てきた。心臓がまだ完全に止まってないうちに、死体の頭と足の両側から大きいビニール袋をかぶせて、トラックに乗せて去って行った。
公開裁判はこれで終わり、午後も授業がないから友たちとぶらぶらしながら歩いて学校に戻ってきた。途中に衛生学校(看護婦専門学校)の前を通ったが、大門の前で男性一人と女性二人の三人が泣きながら何かを話しているのを見つけた。どうして泣いているのかと近付いて話を聞いてみたら、彼らは今日死刑された人の家族だが、死体を家族に返してくれず、衛生学校に持ってきて試験用の人体標本として使うという話だった。死刑囚の体は病気がないため、試験用の標本として使うという話は以前聞いたことがあったが、実際にこのようなことを見たのはこの日初めてだった。
中共は良く厳打する。「厳打」とは、刑事犯を厳しく打撃することである。中共の犯罪に対する態度は、法律に従って対処するのではなく、自分の必要によって厳しく打撃したり、軽く打撃したりする。だから同じ犯罪事実でも、時期によって、人によって受ける罰も違う。
1983年、私が大学一年の時、中共はまた「厳打」を始めた。数年前と同じく公開裁判が行われた。 30万人都市のすべての「単位」から代表を派遣して公開裁判大会に参加させなければならなかった。私のクラスも大学を代表して参加した。公開裁判は6万人が入れるサッカー競技場で行われたが、3万人くらいの人が参加した。午前中の3時間の内に数十人を裁判したが、数年前と同じく、前もって裁判した結果をこの日はただ読み上げるだけだった。今回の「罪人」は皆刑事犯で、裁判結果には釈放がなく、死刑が十数人あった。公開裁判だから死刑は直ちに執行された。トラック一台に死刑酸xun_齔lを運んで行ったが、その場面はとても壮観だった。競技場の出口から数キロまで、道の両側に人がいっぱい立って見た。死刑囚の中にとても勇気がある人がいて、自分たちを見ている人たちに向かって手を振って挨拶をした。その様子はまるで、中国の軍委主席の_deng_小平や江沢民などが、天安門広場で閲兵するとき、兵士達に向かって手を振って挨拶するのと非常によく似ていた。
死刑囚の中で、印象深い二人がいた。一人は「小恵」という二十代の若者で、彼は強盗だった。ある日の午後、私のグラスメート李君が友達とビールを飲んでいた時、トイレに行ったが、運が悪くて「小恵」に腕時計を略奪された。私のもう一人のクラスメート金君は、子供のごろから喧嘩が好きで、この町の裏の顔役達をほとんど知っていた。金君がこの地区の顔役を訪れて、「小恵」の名前を教えて事情を言ったら、二時間の内に「小恵」が自ら腕時計を戻してくれ、しかも、謝ってくれた。「小恵」の罪名をよく聞いたが、彼は強盗だけで、人を殺したことはなかった。
もう一人は三十代の女性だったが、彼女はただよく浮気をするだけで、売春もしなかった。彼女の裁判結果を聞いて、私の隣に座っていた三十代の男は、怒りを覚え、立ち上がって「彼女を殺すなら、ここにいる者たちの三分の二を殺さなければならないぞ!」と大きい声で言った。当時私は若くて何も分からなかったが、今振り返って見ると、彼女は非常にかわいそうだった。
この時の「厳打」において、中国全土で二万人以上が処刑され、百万人以上が逮捕されたと言われた。一般の国では、この二人は処刑されないだろう。しかし、中国ではこのような「公開裁判」や「厳打」により処刑された人は現在も少なくない。
「中国共産党が民衆を恐喝するために……」と先述したが、共産党の目的は確かに民衆を恐喝するためかも知らないが、実際はその目的と反対の結果が現れた。現在の中国人は、死ぬことを恐れない。他人が処刑されるのを平気に見ているだけでなく、自分が刑場に運ばれていても、周りの人に手を振るなど、これは非常に危険な社会現象である。聖人曰く「民、死を畏れざれば、奈何に死を以て之を懼れせしむや?これ大威の至りなり」(『法輪大法 精進要旨』)。中国の社会問題は、法律や経済発展により解決されるものではない。