「百忍」を以って家を治め、九世同居
【大紀元日本12月15日】麟徳二年(665年)の冬十月、唐高宗は泰山へ封禅の儀を行いに行く途中、寿張県(中国河南省濮陽市台前県)を通り掛かりました。寿張県には張公藝という長寿の老人が住んでいました。張公藝がその子孫と九代に亘って仲良く同居していることを聞いた高宗は、張公藝を訪ねました。高宗は張公藝に「なぜ、一族がこのように睦まじく九代も同居できるのか」と聞きました。張公藝は最初何も言わずに、筆と紙を出し、紙に「忍」の字を百余り書きました。そして、張公藝は唐高宗に「父子の間に忍が無ければ、慈悲と孝行の心が失われる。兄弟の間に忍が無ければ、よその人に欺かれる。兄弟の妻の間に忍が無ければ、兄弟たちがばらばらになるだろう。姑と嫁の間に忍が無ければ、親孝行する心が失われるだろう。……」と説明しました。つまり、お互いに責めるのではなく、忍ぶことで家族が仲良くなり、幸せに暮らせるのだということです。
これを聞いて非常に感動した唐高宗はその場で、張公藝に酔郷侯という爵位を与え、張公藝の息子である張希達を司儀大夫に抜擢しました。同時に、高宗は百忍義門の建設を命じ、高宗は自ら「百忍義門」という四文字を書き上げました。張公藝が亡くなってから、子孫はこの「忍」と「孝」を謳うことを主張し、平和かつ幸せな家庭を築き上げた賢明な先祖を記念する為に、彼を祭る「百忍堂」を建てました。現在、中国本土のみならず、海外でも見られるすべての張氏祠堂(張氏一族の先祖を祭る神社)が「百忍堂」と呼ばれているのはこの物語から由来しています。また、張氏の子孫は代々、張公藝の精神を受け継ぐよう、「忍」を家訓としています。
南宋時代の袁釆が執筆した『袁氏世範』では、「長い間、家族と仲良く暮らせる根本的な理由は互いに忍耐できるからです。しかし、忍耐することを知っているが、どうやって忍ぶかということがわからなければ、更に多くの過ちを犯してしまうでしょう。ある人は、不快感を心に隠せばこれが忍だと認識しています。他人にいじめられたら、怒りを抑えて、怨恨の気持ちを心に隠せばいいのだと彼らは考えます。しかし、一回、二回は我慢することができても、長い間に怨恨の気持ちを多く蓄積してしまえば、最終的に我慢できなくなります。そうなると、怒りは堤防を決壊した洪水のように、突如爆発するでしょう。そのとき、抑えたいと思ってもきっと抑えきれないのです。したがって、『この人はわざとやったのではない』とか、『この人は知らなかったのかもしれない』とか、或いは『この人はうっかりして間違えたのだろう』と思うこと、つまり相手の立場や状況を善意を持って考え、不快なことは随時に解消し、心に残さないように努力しなければなりません。こうすれば、たとえ人から十回も不快な思いをさせられても、私たちは言葉で怨恨を表したり、表情で不快感を表すなどということが無くなるでしょう。これが本当の忍耐であります」と書かれています。