中国:唐山大地震30周忌、調査報告書「唐山警世録」が発行禁止

【大紀元日本7月29日】7月28日は、1976年に発生した中国唐山地震の30周忌だった。当局が盛大な復興記念大会を開き、救済や復興建設の実績を大々的に宣伝しているが、今年1月出版した当時の被災状況を刻銘に記録した調査報告書「唐山警世録」は周年忌前に、中宣部(中共中央宣伝部)に発行禁止と処分された。著者の張慶洲氏は、「真相を究明することは、責任を追及するためではなく、後世に教訓を伝え、二度とこうした人為的な悲劇を繰り返さないためである」と当局の過剰な情報封鎖をけん制した。同書によると、地震が発生する前に、専門家が地震予知の警告を出しが、国家地震局は政治的な原因により情報を流さなかったため、死者24万人余の大惨事を招いたという。

1976年7月28日、河北省唐山市でマグニチュード7・8の直下型地震が発生した。市内の90%の建物が崩壊、市全体が廃墟と化した。その翌日、人民日報と新華社は、この事件を報道したが、「被災地域の人民は、毛沢東主席の革命路線に従い革命的精神を発揮して災害に立ち向かっている」との論調以外、倒壊家屋や死傷者の状況などの事実さえも触れなかった。 3年後の79年11月17日、中国地震会議が開かれ、その場でこの地震の死者数は24万人超と公表され、その翌朝、人民日報が初めて死者数を報道した。

世界を驚愕させたこの大災害を招いた原因の一つは、当局が当時、国際社会による援助を拒否したことだが、中国大陸唐山出身の張慶洲氏は2年間を費やして纏めた調査報告書『唐山警世録』によると、当局は政局上不安定をもたらす恐れから、地震の警報を流さなかったことが直接の原因である。

張慶洲氏が調査でわかったことは、大地震が発生する前、中国国家地震局がを全く知らなかったわけではなかったという。地震発生の16日前、国家地震局の専門家・汪成民氏は、防災報告会で会議出席者に、唐山、灤県あたりに地震発生の可能性があり、注意を呼びかけていた。汪氏は北京に戻ると、北京・天津地区の地震動向に注意するよう、国家地震局で自ら「大字報」(壁新聞)を貼り出した。地震発生の前日、汪氏は再び、大地震が発生すると国家地震局に切迫した報告をした。北京地震局も唐山地震の4日前、1976年7月末から8月初頃、北京、天津、唐山地区は大地震が発生するということをわかっていた。しかし、国家地震局は、中央に地震情報を報告しなかった。

張氏によると、北京・天津・唐山は、政治の中心地域であり、当時は、国家総理・周恩来が逝去して1ヶ月、_deng_小平も打倒され、毛沢東だけが在位にあったが、国家地震局は、そうした不安定な政情から政局の混迷を恐れ、中央上層部に地震情報を報告する者が一人もいなかったという。

また、地震前から、唐山市「地震弁公室」などの3ヶ所の観測機構は、大地震が発生する予兆を捉えており、中共指導部に緊急報告したが、情報が無視された上、「地震弁公室」の中堅幹部・楊友宸氏は、「デマを飛ばして、 生産を破壊する」と批判され、強制労働収容所に監禁された。

張氏の調査によると、唐山の災害と対照に、唐山から百数キロの蒼竜県においては、大地震により、家屋18万戸が倒壊したが、全県民47万人の内、1人の死者も出さなかった。その原因は、地元の指導者が汪成民氏らの警報を受け入れ、事前の防災措置を取っていたためだという。

同書によると、大地震後間もなく、国家地震局の関係者が唐山市の廃墟の上に現れると、市民から絶えず小石の襲撃を受け、憤怒と罵声を浴びた。1975年の海城地震をみごとに予報した専門家・李志永氏の話によれば、大地震発生後、24時間も経っていなかったが、現地地震局の看板がすでに民衆により叩き潰されていたという。

著者・張慶洲氏は、2年以上の歳月を費やし、様々な調査を行い、1999年にこの調査報告書を完成した。中共による度重なる厳しい審査を受け、その後5年間も放置されていたのだが、2004年当時の国家地震局局長・宋瑞祥氏は、あるきっかけでこの調査報告書に目を通し、序言を書いた上、出版許可を出した。それを受け、今年1月に上海で初めて出版された。現在、宋瑞祥・局長も責任を問われ、現職を退任させられたという。

また、当局の復興建設の宣伝と異なり、インターネットでは、「本来避けられた大災害は、このように24万人の命を失う結果となった…」「30年間の復興の功績を讃えるより、この間の社会道徳の急落を反省すべきでは」などの書き込みが多数出され、市民の心に押し込まれている怒りを代弁した。

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