中国精神病院における政治犯虐待の実態(1)

【大紀元日本11月11日】中国国家主席胡錦濤がドイツを訪問する前、ドイツ有名誌「ツアイト(Zeit)」誌は、中国の精神病院に13年間も監禁された民主活動家・王万星氏(56)に対する長編インタビュー報道を発表し、中国における政治犯への虐待の実態を暴露した。

同誌の追跡報告によると、王氏は、フランクフルト郊外にある閑静な町に住んでいる。ドイツに来てから、11ヶ月が経過した王氏は、毎日、近くの運動場でジョッギングしている。一人でジョッキングしながら、泣く場合もある。ジョッギングする以外、王氏は殆ど外出しない。戸口に名札も出さない。この報告が出るまで、王氏が中国政府に追われて、ドイツに11ヶ月住居していることを、ドイツでは知る人はほとんどいなかった。 

2005年8月16日、王氏がドイツの外交官及び中国の安全工作員と同行し、中国航空のファーストクラスに搭乗し、北京からフランクフルトへと向かった。北京の「安康医院」で13年間の生活に告別し、ドイツに来たのはまるで地獄から天国に来たようだと、王氏が語った。ドイツで妻や娘とともに一緒に生活できることを、ドイツ政府の協力に感謝の意を示している。

ジョン・カムー氏(John Kamm・アメリカの人権運動家)は基金会の設置を通して、中国の民主運動家、異見の知識人の身の振り方の問題で、中国政府との交渉を展開している。今まで、その行き先であるアメリカの換わりに、王氏がドイツ政府に始めて収容された異見の知識人の第一人者となった。ドイツがその先例を開いたことに、ジョン・カムー氏が祝意を示している。しかし、今回の経緯には、ベルリン政府と北京政府との協議があり、これらの中国の人権問題については、承認あるいは公開な態度を一切示さないとされている。

王氏は初めて北京の「安康医院」(1987年開設)に送られた異見者であった。うわべは「安康医院」といっているが、その中身は恐怖、拷問、殺人の場所である。「安康医院」が普通の精神病院と違うのは、精神病患者だけではなく、異見者も含めて収容されていることである。

1966年、中国文革をはじめ、四人組による混乱と権力闘争の10年間のが続き、1976年に彼は失脚した_deng_小平氏を支持したために投獄させられた。天安門事件の三年後、1992年6月4日に彼は天安門広場でスローガンを挙げたことで、再度逮捕された。当時、民主運動家が中国公安に抵抗している場面を撮影していたある米人記者はその場で中国公安に殴られ、未だに半身不随になっている。その他、多くの国々の記者も負傷していた。

王氏が出国後、中国の暗黒面、自分の遭遇を人間としての証明を暴露したいと考え、自分のような異見者は根本的に精神的、心理的問題はないのであり、ただ、中国政府に違う意見をもっているだけだと述べている。中国の法律の前に言論自由はなく、抵抗しようとても抵抗できない。「安康医院」では拷問、電撃を受けたり、インシュリンなどの薬物を投与された。もともと、全国に22あった「安康医院」は、現在125に増加されており、数百名の異見者と思われる人が収容されている。以前は異見者の数が数千名に達したこともあるという。

中国政府は国際社会からの圧力により、精神病患者に関する法律を定めようとしていた。しかし、1985年以来、その関連法案はまだ通過されていないという現状である。中国政府はどのような手段により、異見者を収容しているのか、王氏の事例を見よう。王氏の「安康医院」でのカルテによると、病院側の私に対する印象がよく、かんしゃくも起こさなく、おとなしく、ラジオを聴き、読書、人助けが好きだということである。しかし、幻想症にかかり、政治問題についての思想ロジックには問題がある。それにより、「安康医院」に収容されるべきであると考えられていたのである。

(つづく)

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