これまで私たちは、がんという病気を「どこにできたか」によって分類してきました。肺がんなら肺、胃がんなら胃、乳がん、結腸・直腸がんなど、それぞれ異なる治療法があり、相互に関連性はないとされてきました。しかし、過去10数年の間に、がん医療には大きな転換が起きています。研究が進む中で、がんの本質を決定づけているのは「どこにできたか」ではなく、「何によってがんが生じているか」、つまり、がん細胞の内側にある遺伝子や分子の特徴であることが明らかになってきたのです。
この理解をもとに、新しい治療の概念「パンコースト腫瘍」すなわち「がん種横断型の精密医療」が登場しました。その原則はとてもシンプルです。異なる種類のがんであっても、同じ分子マーカー(バイオマーカー)を持っていれば、同じ治療薬を使用できる可能性があるという考え方です。つまり、仮にあるがんが肺にでき、もう一方が胃にできていたとしても、同じ遺伝子変異を持っていれば、同じ治療法で対応できるかもしれないのです。
パンコースト腫瘍:がん治療の転換点となるか?
2017年、アメリカ食品医薬品局(FDA)は医療界にとって「歴史的な一歩」とされる判断を下しました。それは、免疫療法薬「ペムブロリズマブ(商品名:キイトルーダ)」を、がんの発生部位に関係なく、MSI-HまたはdMMRという特定の遺伝子異常を持つすべての固形がんに対して使用できると承認したのです。
MSI-H(マイクロサテライト不安定性が高い状態)およびdMMR(ミスマッチ修復機能の欠損)とは、がん細胞がDNAを修復する際に起こるシステム的なエラーを意味し、その結果としてがん細胞に大量の遺伝子変異が蓄積します。変異が多ければ多いほど、がん細胞は異常なタンパク質を持つようになり、免疫システムに発見されやすくなります。そのため、このタイプのがんは免疫療法に対して反応が良いとされています。
この出来事は、医学界の権威である『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』においても、「がん治療の概念を根本から変える重要な一歩」として高く評価されました。
この変化を受け、医学界では今、新たな問いが真剣に議論されています。それは「がんの治療は、どこにできたかを見るべきなのか? それとも、なぜがんができたのかを見るべきなのか?」という問いです。
パンコースト腫瘍療法で恩恵を受けやすい患者とは?
パンコースト腫瘍(がん種横断型精密医療)において最も重要な前提は、「がんの種類」ではなく、「がん細胞に特定の分子マーカーがあるかどうか」です。以下は、現在注目されている代表的なパンコースト腫瘍の標的とされる分子マーカーです。
1. MSI-H / dMMR:最初にパンコースト腫瘍適応が認可されたマーカー
高頻度マイクロサテライト不安定性およびミスマッチ修復機能欠損は、パンコースト腫瘍療法として最も早く認可された遺伝子マーカーです。DNA修復機能の欠如により遺伝子変異が多発するこのタイプのがんでは、免疫療法の反応率が非常に高くなります。このマーカーは、結腸・直腸がん、子宮内膜がん、胃がん、胆道がんなど複数のがん種で見られるため、発生部位に関係なく高頻度マイクロサテライト不安定性が確認されれば、免疫療法が治療の第一選択肢となり得ます。
2. BRAF V600E:複数のがんを駆動する「共通のアクセル」
BRAF V600Eは、がんの成長に関わるMAPKシグナル経路を常に活性化させてしまう、治療的意義の大きい遺伝子変異です。この変異は、悪性黒色腫(メラノーマ)、甲状腺がん、結腸・直腸がん、肺がん、胆道がんなどに共通して見られます。この変異に対する治療としては、BRAF阻害薬とMEK阻害薬の併用療法(例:ダブラフェニブ+トラメチニブ)が用いられ、複数のがん種で腫瘍の縮小や治療成績の向上が確認されています。
3. NTRK融合:見つかれば高い治療効果が期待できるマーカー
NTRK融合(TRK融合遺伝子)は、非常にまれながらも治療効果が極めて高い遺伝子変異で、がんの発生部位に関係なく、TRK阻害薬(例:ラロトレクチニブ、エントレクチニブ)による顕著な治療効果が期待できます。そのため、典型的なパンコースト腫瘍標的とされています。
この変異は、乳幼児線維肉腫、先天性腎芽腫、分泌型乳がん、唾液腺腫瘍で高頻度に見られます。肺がん、甲状腺がん、結腸・直腸がんでは比較的まれですが、それでも非常に良好な反応が報告されています。
4. TMB-H:遺伝子変異が多いがんは免疫療法が効きやすい
TMB-H(高変異負荷)は、がん細胞が多数の遺伝子変異を持っている状態を指します。変異が多いほど、異常なタンパク質が発現しやすくなり、それを免疫システムが検出しやすくなるため、免疫療法(PD-1 /PD-L1阻害薬など)の効果が高まる傾向にあります。
高変異負荷は、肺がん、悪性黒色腫、膀胱がん、頭頸部がん、特定の結腸・直腸がんなど、さまざまながん種で見つかります。そのため、高変異負荷もまた、パンコースト腫瘍マーカーとして免疫療法に利用できる重要な指標とされています。
これらの分子マーカーは、がんの「分子レベルのIDカード」のようなもので、患者がパンコースト腫瘍精密治療の対象となるかどうかを左右します。従来のように、がんがどこにできたかに縛られる必要は、もはやなくなりつつあるのです。
アジア系患者:分子検査で特に大きな恩恵を受ける可能性
パンコースト腫瘍(がん種横断型)精密医療がアジア系、特に華人患者にとって非常に意義深いとされる理由は、アジア人に多く見られるがんの種類が、治療可能な遺伝子特徴を有しているケースが多いからです。つまり、分子検査を受けることで、より多くの患者が自分に合った精密治療を見つけられる可能性が高いのです。
たとえば胃がんは、アジア人で発症率が高く、高頻度マイクロサテライト不安定性、HER2(ヒト上皮成長因子受容体2)の高発現、そしてCLDN18.2の過剰発現がアジア系に多く見られます。これにより、免疫療法、HER2標的治療薬、CLDN18.2を標的としたADC(抗体薬物複合体)などの新しい治療法の可能性が広がっています。
また、肝がんや胆道がんにおいても、線維芽細胞増殖因子受容体2融合やIDH1/2変異、BRAF V600Eなどの遺伝子異常の頻度が、欧米に比べてアジア人では高い傾向があることが分かっており、精密な標的治療がますます重要になっています。
さらに、鼻咽頭がんは「アジア人特有」とされるがんの一つで、免疫反応の特性からPD-1阻害剤が非常に高い効果を示しています。また、肺腺がんではEGFR、HER2、MET、RETといったドライバー変異がアジア人に多く見られ、分子検査の価値がさらに高まっています。
こうしたことから、アジア系患者では、治療に直結する重要な遺伝子マーカーを持つ割合が高く、パンコースト腫瘍精密医療の適用範囲が広がっているのです。分子検査が普及すればするほど、治療全体の成果も大きく向上すると期待されています。
ADCは次世代のパンコースト腫瘍治療となるか?
近年注目を集めているがん治療の革新技術の一つに、ADC(抗体薬物複合体)があります。ADCは「抗体によるターゲティング」と「薬剤による攻撃」を組み合わせた「ナビ付きの化学療法」とも呼ばれ、がん細胞表面のタンパク質を標的にするため、腫瘍の発生部位に関係なく応用できる可能性があります。
中でも有名なのが、HER2を標的とするADC「T-DXd(トラスツズマブ・デルクステカン)」です。もともとはHER2陽性乳がんの治療薬として開発されましたが、研究の結果、HER2がある程度発現していれば、胃がん、肺がん、結腸・直腸がん、胆管がんなどでも有効な反応が確認されています。
『ネイチャー臨床腫瘍学レビュー』では、HER2、TROP2、CLDN18.2といったタンパク質が複数のがん種で発現していることから、ADCは「初めて本当の意味でのパンコースト腫瘍精密治療薬になる可能性がある」と述べています。ただし、がん種ごとにタンパク質発現の基準値、耐性の仕組み、副作用の出方には違いがあるため、ADCが本格的にパンコースト腫瘍治療の中心になるには、さらなる研究とエビデンスの蓄積が必要です。それでも、ADCは次の時代の精密医療を牽引する重要な柱になると考えられています。
なぜパンコースト腫瘍治療は万能ではないのか?
パンコースト腫瘍治療ががん医療に革命をもたらす一方で、現実的な限界も存在します。最大の課題は、すべてのがんが「治療可能で識別可能な遺伝子異常」を持っているわけではないということです。さらに、同じ遺伝子変異でも、がんの種類によって治療反応が異なることもあります。たとえば、BRAF V600E変異は悪性黒色腫や肺がんでは非常に良好な治療効果が見られますが、結腸がんでは他の治療薬との併用が必要で、単独では同じ効果が得られません。
また、MSIやTMBの検査は検査機関によって精度や結果が異なる場合があり、検査費用やアクセスの問題も患者の選択を左右します。加えて、たとえ分子標的治療が成功しても、時間の経過とともに薬剤耐性が出てくるケースもあり、新たな治療法の開発が求められます。
米・ジョージタウン大学の腫瘍科主任スティーブン・リウ医師は「同じBRAF変異でも、がん種によって治療反応は違う。治療法の選択には、がんの生物学的全体像を理解することが不可欠だ」と述べています。
つまり、たとえ変異が見つかっても、治療は一律ではなく、個々の状況に応じた判断が重要なのです。
今後のがん治療はどう変わっていくのか?
がん治療は今後、「より広く、より深く、より正確に」進化していきます。医療界では、単一の遺伝子を見るのではなく、DNA、RNA、タンパク質、代謝情報、腫瘍の周囲環境など、複数の層を組み合わせた「マルチオミクス解析」が注目されています。これら膨大なデータの分析には、AI(人工知能)の活用が進んでおり、個々の患者に最適な治療法を見つける手助けをしています。
今後は、より精度の高いADC、より簡便で早期に活用できる遺伝子解析技術(NGS)の普及により、患者が初期段階から適切な治療を受けられるようになるでしょう。アメリカ国立がん研究所も「分子検査は、部位に依存しない治療の時代へ進むための『入場券』だ。検査なしでは、適切な治療をマッチングすることはできない」と強調しています。
免疫療法、分子標的薬、そしてADCが成熟していく中で、がん治療はまさに新しい時代へ突入しています。それは、「がんがどこにあるか」ではなく、「がん細胞がどんな性質か」で治療を決める、全く新しいアプローチの時代なのです。
(翻訳編集 華山律)
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