楊氏一族の女将軍が、遼の擁する鉄甲騎兵を撃破した(清玉/大紀元)

楊氏の女将軍、鉄甲騎兵を撃破す(2)王蘭英と楊延琪、女兵を率いて参陣

遼軍の韓昌は、楊延昭が兵を退却させたのを見るや、全軍へ猛攻撃を命じました。これに対し、城を守る宋軍の孟良、焦贊らは石弓の兵を指揮して、敵軍へ雨のように矢を降らせます。さらに城壁にずらりと据えられた大砲が天を震わす轟音を上げると、寄せ来る鉄甲騎兵でさえもなかなか城門を突破できません。

韓昌はやむを得ずその場に陣営を張り、今後の攻撃のため準備を整えることにしました。いっぽう楊延昭はというと、城へ戻るとすぐに、よろめいて倒れてしまいました。彼はもとより病を押して出陣していたのですから、その体力は尽きていました。将兵たちがすぐに軍医を呼び、楊延昭の治療に当たらせました。

しばらく休息した後、病身の楊延昭は諸将に「目下の敵をいかにして倒すか、皆で相談せよ」と命じました。軍議のなかで、孟良と焦贊は「なんといっても主帥(楊延昭)は病の身である。まずは、よくよく養生していただこう」と述べ、しばらくは岳勝が指揮官を代行して防衛するとともに、今は守備を固めて朝廷からの援軍を待つ、という方法を提案した。

しかし楊延昭は「久しく守ろうとすれば、必ずその地を失う。決して長くはもつまい。なんとか敵の鉄甲騎兵の脅威を除かなければならない」と考えていました。

そこで楊延昭の考えた作戦は、自分自身がおとりとなって敵軍を引き込み、鉄甲騎兵を不利な状況に陥れてから一気に撃破する、という方法です。

この楊延昭の作戦について、諸将はみな反対しました。「総帥である楊延昭に病気を治してもらうのが先決であり、その他の人員でなんとか持ちこたえて、状況の変化を待つのがよろしかろう」というのが大方の意見だったのです。

楊延昭は、自身が病であることに苦悩しましたが、しばらくは皆の意見に同意したうえで、改めて敵を破る策を講じようと思いました。軍議の後、孟良は2羽の伝書鳩を使い、開封の朝廷および楊家の地元である天波楊府に対し、最前線への支援を求める書簡を送りました。

それから数日間というもの、城内にこもって出てこない宋軍を引き出すため、韓昌は城の外から罵り続けました。

それでも宋軍は「免戰牌(戦いを避ける看板)」を高く掲げて、好きなように罵らせておきました。このような数日間が過ぎた後、楊延昭がちょうど座禅をして鋭気を養っていたところへ、衛兵が報告に来ました。「閣下の奥様と護衛の者が、ご面会を求めています」

それを聞くや、2人はすでに楊延昭の面前に来ていました。2人とは、妻の王蘭英と若い男です。

楊延昭は驚き、また喜んで妻に訊ねた。「おお蘭英よ。そなたは、どうしてここへ来たのだ」

蘭英は、夫の問いにこう答えました。「国境の関で、火急の事態が生じたと聞きました。それで私は、楊家の者のなかから女兵を引き連れて、ご加勢に参陣したのです」

妻の言葉を聞いた楊延昭は、こう続けました。

「そうであったか。実のところ、韓昌の鉄甲騎兵がこれほど手強いとは思わなかった。我が軍の損失は少なくない。おそらく、厳しい戦いであっただろう。それにしても、そなた(蘭英)の武功の高さは申し分ないが、そなたが連れてきたという他の女兵は戦えるのか。また、そなたの隣にいる若者は誰であるか」

まだ年若い男子に見えたその人物が、仮面と頭巾を外しました。すると、なんと現れたのは、ゆたかな黒髪と秀麗な面立ちをもつ女人でした。その女性が、こう言います。

「兄上、お分かりになりませんか。そうだとすると、私の変装がよほど成功したのですね!」

楊延昭は驚き、喜んで叫びました。「おお、そなたは延琪ではないか!まさに我が妹だ。長らく見ないうちに、なんと美しく、大きくなったことか」

その「若者」は、楊延昭の兄妹のうち8番目の妹である楊延琪だったのです。延琪は、ここへ来た理由を兄に語りました。

「母上から、国境で戦乱が起きたと聞きました。しかも兄上は、ご病気とのこと。姉上(王蘭英)は居ても立っても居られず、前線へ出たいと叫んでいました。私も、広く世の中を見てみたいと思い、姉上についてきたのです」。

妹の言葉を聞いた楊延昭は、少し困惑してこう言いました。

「いやいや、戦場は危険すぎる。子供の遊びではないのだよ。まして、そなたはまだ若く、戦った経験もないではないか」

すると楊延琪は、こう答えます。

「これでも私は兵法を学んだのです。敵の鉄甲騎兵が手強いことは、よく存じています。だからこそ、敵軍を打ち破る策を持たねばなりません。私は姉上とともにここへ来るまでの間に、その策を練ってきたのです」

そう言うと、楊延琪と王蘭英の2人は、いかにして敵を打ち破るかの秘策を楊延昭に語りました。

聞き終わった楊延昭が、こう答えます。

「なるほど、その策は良いかもしれない。しかし危険すぎるのではないか。利点もあるが、欠点もある。だとすれば、私はどうして母上に顔向けできようか。これからわれわれが向かうのは、まるで狼か虎かというような鉄甲騎兵なのだよ。わが軍の強兵でさえ大苦戦を強いられた。まして女兵であれば、なおさらではないか?」

すると妻の王蘭英が、こう言いました。

「殿、ご安心ください。人にはそれぞれ、短所もあれば長所もあるものです。女子といえども、女ならではの武器があります。かつての三国時代に、董卓は、涼州の大軍と猛将の呂布を頼りにして、後漢の王朝に騒乱をもたらしました。その時、天下にひしめく諸侯は、百万の雄兵を擁すと称しましたが、何の役にも立たなかったではありませんか。しかし、美人の貂蝉は、おのれ一人の力で佞臣を排除し、天下国家を安んじたのです。殿は、我ら楊家の女将たちが、当時の貂蝉に及ばないと思われますか?」

そこまで言われては、楊延昭も同意するしかありませんでした。

「わが妻の意志は、すでに決しているようだな。ならば、やってみるしかあるまい」

(つづく) 

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