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訴訟を手がける弁護士として、これらはいずれも心に深く刻まれた思いである。例えば、かつて私が担当した「シリコン資産権をめぐる係争案」の一審で、私は大敗を喫した。これには、実に面白いエピソードがある。実はこの裁判には『人民日報』(訳注、中国共産党の機関紙)を含む十数社のメディアが傍聴に来ていたが、彼らは皆、私の依頼人の勝利に確信を持っていた。ところがその後、担当裁判官すら知らされない状況下で、判決文が下されたのである。
この裁判の後、私はよくこの件の敗訴の原因を問われるが、私は必ず「工場長の高さんが痩せすぎていたからね」と苦笑する。確かに依頼人の高さんは小柄で痩せていたのだが。
わが中国の弁護士もすでに10数万人に達した。年々増えてはいるものの、これと比例するように社会正義も広がっている……というわけではない。
古代ギリシャや古代ローマ時代といった草創期を抜きにしても、弁護士は独立した社会の職業として、欧米ではすでに300年近い歴史を持っている。実際、古代ローマにおいて、弁護士制度は民主制度を維持するための重要な柱となっていた。欧米社会はこれを受け継ぎ、さらに概ね理想的な現代の弁護士制度へと発展させた。だが、欧米の文化・体制とは極めて対照的な中国に、この弁護士制度が入ってきた途端、それは一変してしまう。その「発展」振りも、一言で語りつくせるものではない。
そもそもの始まりは、1957年以降にもてはやされた「法律虚無主義」である。この頃、元々脆弱だった弁護士制度が徹底的に破壊された。79年に、弁護士業がようやく復活したものの、その後の発展といえばあまりにも頼りないもので、85年までの弁護士の数は1万にも満たなかった。85年以降、弁護士業はようやく一定の発展を遂げることとなる。
法治社会において、弁護士はある使命を有している。それは、人権・憲政・法治および社会正義を守ることである。だが弁護士業が存在するからといって、これらの使命が達成されるわけではない。弁護士が上述の使命をやり遂げるだけの力と法的制度を持てるよう、保証されること。これこそが何よりも大切なのである。
公平と正義をひたすら追い求める弁護士。そのような弁護士同盟軍にとって、国と政府が敵ではなく味方となる、そんな日が一体いつになったら訪れるのだろうか。私は時折、深い感慨にふけってしまう。
世界のどの国どの地域でも、弁護士は民主政治や社会正義に対し、果たすべき当然の職業上の道義が存在する。しかし、今日の中国の弁護士だけは、この道義を分かっていない。しかも彼らは私利私欲の塊で、利益を貪(むさぼ)ることしか頭にないのだ。これほどまでにたるみきり、目先のことしか考えられず、分別のつかなくなった中国の弁護士は、自滅の道を歩むしかないのであろうか。
(続く)
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