【古典の味わい】貞観政要 6
貞観の初め頃のこと。太宗が侍臣に向かって、このように言われた。
「禁裏に召し使われている婦女子のことであるが、この者たちは、奥深い宮中に閉ざされており、その心情を思うと、まことに気の毒である」
「前朝である隋(ずい)の末年には、あちこちから女子を集めて止まず。それこそ離宮や、天子が行幸する別館ではないところにまで、やたら宮女を置いていた。これは、人民の財力を浪費するだけのことだ」
「朕(ちん)は、そのようにはしない。今ある宮女たちを宮中から出して、それぞれ求めるところへ嫁がせてやろう。それはただ宮中費用の節減だけでなく、人民を休ませることにもなるからだ」
そうして太宗は、後宮の貴妃から下働きの女まで、宮中にいる婦女子をみな出して、自由にしてやった。その数、三千余人という。
「後宮三千人」が慣用句になるのは、太宗の時代より200年ほど後に、白居易が玄宗と楊貴妃のロマンスを詠じた「長恨歌」によると思われます。
ただ、詩歌である「長恨歌」には文学的修辞が多分に含まれるのに対して、『貞観政要』が記録であることを加味すると、ここで本当に3千人の宮女を解放して、里帰りさせた光景が想像できます。ただ、付言すれば、貧困家庭の娘が選ばれて宮中勤めになることは、親の願いでもあったのです。
前王朝の隋(581~618)は短命でした。初代の文帝(楊堅)は英明でしたが、その次男で第二代皇帝の楊広は、父の死後、中国史上に名高い暴君となりました。
楊広は、高句麗遠征や大運河開削に人民を駆りだして酷使し、国力を浪費して、ついに隋を滅ぼしました。大運河については、21世紀の今も水路として活用されているので、その評価は否定ばかりではないのですが、楊広の人物は、酒色と贅沢におぼれた暗愚の王と言わざるを得ません。
唐朝では、これに煬帝(ようだい)という蔑称のような諡号をつけています。
「ああなっては国が滅ぶ」。同じ第二代皇帝である太宗は、ここで隋の煬帝を最大の反面教師にしていると見て、間違いはないでしょう。
(聡)