【古典の味わい】貞観政要 1
中国に貞観(じょうがん627~649)という年号の時代がありました。唐(618~907)の始めごろの時代です。
不思議なことに日本の平安時代にも、全く同じ名称の貞観(859~877)という年号があります。どちらも中国の古典である『易経』の「天地之道、貞観者也」つまり「大徳ある天地の道は、正しく、明らかに示される」を典拠にしています。
もちろん、それは偶然の一致ではなく、日本の年号の貞観は、先行する唐の貞観の理想政治に対する圧倒的なあこがれが基盤にあることは疑いありません。なにしろ「同じ年号」を、わざわざ選んでつけるほどです。当時の日本人が抱いた唐への心酔ぶりはいかばかりかと、微笑ましい想像をしてしまいます。
唐王朝の開祖は李淵(りえん)という人でした。その李淵の次男で、第2代皇帝となったのが李世民(りせいみん598~649)。のちに太宗(たいそう)という廟号で、後世の全ての中国人から尊敬される、中国史上最高の名君です。
太宗が在位した期間のほとんどが、この貞観の時代にあたります。
太宗は、三省六部(さんしょうりくぶ)という政治制度を整備して内政を充実させるとともに、すぐれた賢才(十八学士)を採用して学術文化を振興させ、高潔な忠臣(二十四功臣)を側近として善政をおこないました。大唐帝国は、まさしく太宗の時代に最盛期を現出したのです。
そうした偉大な歴史的業績を遺したのは、太宗自身の誠実で模範的な人柄によるところが大きいと言えます。
今後、本コラム「古典の味わい」で、しばしば取り上げる予定の一書は『貞観政要』と申しまして、太宗が側近たちと交わした言葉の精密な記録です。
太宗は、皇帝という最高の地位にありながら、常に天下万民が幸せであることに心を砕き、自ら率先して理想政治をおこないました。時に、臣下から耳の痛い諫言があっても、太宗はこれを受け入れ、「よくぞ申してくれた」とその臣下の忠義を称賛したのです。
徳川家康も愛読した教養書である『貞観政要』を、これから味読して参りましょう。
(聡)