【掌編小説】大運河の柳  白居易「隋堤柳」より

 今日の言葉では「京杭大運河」という名称がつけられている。

 単に、固有名詞で「大運河」とも言う。もちろん今も水運に使われているので、その意味では「役に立っている」といって間違いではない。しかし、中国史のなかでの大運河は、朝滅亡の誘因ともいわれ、国家を危うくした象徴でもある。

 中国伝統文化が最盛期を迎える唐代の前に、隋朝(581~618)という、まことに短いが、良くも悪くも濃度の高い王朝があった。隋の文帝(楊堅)は、魏晋南北朝以来の混乱を鎮め、中国全土の統一に功績があった人物であるから、その過程において荒々しいときがあったとしても、有能な創業者であるといってよいだろう。

 ところが2代目が問題児であった。楊広(ようこう)というのがその名だが、唐代以降の歴史は、この人物を中国随一の暴君であるとして「煬帝(ようだい)」と呼んだ。「煬」は火であぶる意である。おまけに皇帝の「帝」をわざわざダイと読んで、あからさまに差別化している。

 このヨウダイ、いや煬帝が作らせたのが、北京から杭州まで2500キロメートルに及ぶ水路「大運河」である。正確に言えば、それ以前の古代から部分的に水路はあったし、先代の文帝も工事を進めたが、100万人の民衆を動員し、これを死ぬほど酷使して大規模かつ迅速に完成させたのは煬帝その人であった。

 煬帝は、そのほかに高句麗遠征に莫大な国力を浪費していた。そう言えば、本朝の聖徳太子が遣隋使・小野妹子に託した国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや」とあり、煬帝がこれを見て激怒したとされる。煬帝の性格からして「日本へ軍を送って膺懲(ようちょう)せよ」と叫びそうな場面だったが、それを思い止まった理由については、北方の高句麗に対峙していた国情を想像してよい。

 それ以前に、煬帝自身が酒色にふけって皇帝としての統治力を全く失っていた。当然の結果として、部下である家臣に殺害される。煬帝が中国史上に遺した功績は、自身のふるまいをもって「最悪の見本」を明示したことであろう。後世の歴代皇帝は、どの王朝であれ「隋の煬帝のようになっては、なりませぬ」と側近から言われていたはずだ。それが実施できたか否かは、別としてだが。

 隋の滅亡から、およそ二百年後。白居易(白楽天)の長編詩に『隋楊柳』という一編がある。それによると、当時の大運河の岸辺には、建堤のときに植えた柳が、枯れかけながらもわずかに残っていたらしい。

 「隋の堤の柳は、長い歳月を経て、弱々しく枯れかけており、見る者を悲しませずにはおかない。かつては、春の盛りになると青々とした緑の葉が、この堤に並んだことだろう。あの煬帝のころ、運河をはさんだ両岸に柳が植えられ、西は黄河から東は淮河に至るまで、柳の緑が千三百里もつづいたという。春の三月、並んだ柳の葉は煙のようにかすみ、綿毛は雪のように白かった」。

 「そこへ煬帝は、龍の形の船に乗って現れた。そのとき、きっと岸辺の柳に、龍船をつないだに違いない。天下の財力は、このときすでに尽きていたが、龍船のなかの歌声や笑い声は、いつまでも終わらない。上の者の生活態度はすさみ、下の庶民の生活は困窮していた。隋の国家の危うさは、冠につけた珠のようなものだった」。

 「しかし煬帝は、自分の幸福が永遠であると、まったく勘違いしていた。煬帝の龍船が彭城閣に到着しないうちに、隋打倒を目指す義軍の旗が、長安の都に入ってしまったのだ。天子の家中に異変が起こり、煬帝は崩御しても長安へ帰ることはできなかった。わずか三尺の土盛りの墳墓だというが、一体どこに葬られたか。それは呉公台、悲しい風の吹く所だった」。

 長編詩の最後を、白居易は、こんな詩句で締めくくっている。

 後王何以鑑前王、請看隋堤亡国樹。すなわち「後世の中国皇帝は、我が身を戒めるために、前代の皇帝の何を見るのが良いか。ならば、どうかこれを見てほしい。隋堤の亡国の柳樹を」と。

(鳥飼聡)

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